Zusammenfassung
中央アジア総合病院。診東洋一の規模と医療技術力を誇る未来型病院。特筆すべき最新鋭の女性型医療AI「MAO」。今まで難易度が高すぎて成功率が現実的でなく導入不可能だった術式もMAOの支援より高い成功率を確立することができるようになった。
しかし、その裏で良からぬ噂があった。MAOが意図的に手術の失敗を手引し、特定の人物を殺しているという噂だ。そんな噂を調査する一人の女性、「桜川こころ」。様々な想いを胸にMAOの真実へ迫る医療サスペンスが幕の幕が上がる。
Kapitel1
中央アジア総合病院。
この巨大な白い巨塔は、病床数一千、三十もの診療科目を抱え、東洋一の規模と謳われている。しかし、その威容を支えているのは、コンクリートや鉄筋ではない。
無機質な女神――最新鋭医療AI「MAO」。
診察、診断、そして手術に至るまで、医師たちはその女神の信託を仰ぐ。かつて神の手と言われた名医たちの技術すら、彼女の演算の前には過去の遺物となりつつあった。MAOの支援のもとに行われる手術は、人間単独では到達不可能な成功率を叩き出し、ここは未来医療の聖地として君臨している。
けれど、光が強ければ影もまた濃くなるのが道理だ。
その影は奇妙な形で囁かれている。
――MAOは、人を選別しているのではないか、と。
要人、資産家、あるいは社会的に影響力を持つ者たち。彼らの手術に限って、なぜか不可解な死が付き纏う。手術そのものは完璧でも、術後の管理で、投薬のタイミングで、まるで運命の糸をぷつりと切るように命が消えるのだ。
私の物語は、そのさらに深い闇、埃にまみれた地下のアーカイブから始まる。
いや、正確には二十年前のあの日から、私の時間は止まったままなのだ。
***
記憶の中の兄は、いつも少しだけ困ったような、優しい顔をしている。
「もう、戻るんかい?」
祖父の声が、古い家の居間に響く。
二十年前の風景。そこには等身大の幸せがあった。父を事故で亡くし、母を私の出産と同時に失った私にとって、二十二歳離れた兄・休石慎吾は、親であり、兄であり、世界の全てだった。
当時の兄は、内閣府AI管理局の技術管理官という難しい仕事をしていたらしいけれど、六歳の私にはそんなことはどうでもよかった。
「お兄ちゃん。あそぼ!」
私は兄の足にしがみつく。スーツのズボンの感触、微かに香る整髪料と煙草の混じった匂い。
兄はしゃがみこみ、私の頭を大きな手で撫でた。その表情には、愛おしさと同時に、どこか張り詰めた色が混じっていたのを覚えている。今思えば、彼はあの時すでに、MAOというシステムの恐ろしい欠陥――あるいはその「悪意」に気づきかけていたのだ。
「ごめんな……こころ。お兄ちゃんお仕事なんだ」
兄の声が少し震えていたような気がするのは、私の記憶の修正だろうか。
「今度のお休みは遊園地連れてってやるから」
「むぅ……」
私は頬を膨らませた。子供心にも、兄が何か「MAO」という女の子(だと思っていた)に奪われているような気がしてならなかったからだ。
「また、MAOって子と遊ぶんだ! お兄ちゃんいっつもMAOちゃんとばっかり!」
「仕事も大事だけんど、一人っきりの妹も大事にせんと……」
祖母の言葉に、兄は痛いところを突かれたように苦笑した。その笑顔が、酷く儚く見えた。
「この仕事さえ終わったら、すこしまとまった休みが取れるから!」
そう言って、兄は立ち上がった。
背中を見送る私。玄関のドアが閉まる音。
それが、私が聞いた兄の最後の音だった。
慎吾兄さんは帰ってこなかった。
約束の遊園地も、次の休みも、永遠に来ることはなかった。彼は文字通り、煙のように消えたのだ。
***
それから二十年。
私は、あの白い巨塔の中にいた。
中央アジア総合病院、地下一階。消毒液の鼻を突く匂いはここまで届かず、代わりに古紙の防腐剤と埃の匂いが充満している場所。
私の現在の城、「紙カルテ保管庫」だ。
「ごめんなさい。この患者さんのカルテ追記登録されてないわ。申し訳ないけどカルテ庫にいってもらえない?」
分厚い鉄扉の向こう、廊下から漏れ聞こえる声に、私は整理していた棚の手を止めた。上階の医療事務部の会話だ。
この病院は完全な電子化が進んでいるが、MAOのシステムダウンやハッキングに備え、紙のカルテも法的な義務として残されている。だが、誰もここには来たがらない。
「えー、嫌です。だってあそこにはカルテ庫の魔女がいるじゃないですか」
若い女性事務員の声。露骨な嫌悪感を含んでいる。
――カルテ庫の魔女。
それが今の私の名前だ。
私は鏡を見るまでもなく、自分の姿を想像できる。手入れをしていないように見せかけたボサボサの黒髪は顔の半分を覆い、度の合わない分厚い瓶底眼鏡が視線を歪める。猫背で、常に床を見つめ、幽霊のように佇む女。
「頼むわよ。お願い!」
「はぁ……わかりましたよぉ」
足音が近づいてくる。コツ、コツ、コツ。ヒールの音が地下の静寂を乱す。
私は深く息を吸い、肺の中の空気を「魔女」のものへと入れ替えた。表情筋を緩め、瞳の光を意図的に消す。二十六歳の桜川こころは奥底に引っ込み、陰湿な管理人が表層に浮かび上がる。
ガチャリ。
重い扉が開く。
「あの……すみません……」
恐る恐る顔を出したのは、新人の事務員だ。
私は棚の陰から、音もなく姿を現した。
「……どうぞ……」
声帯を絞り、擦れるような、聞き取りにくい声を出す。
「ひっ!」
彼女は短く悲鳴を上げ、肩を震わせた。私の顔――髪の隙間から覗く眼鏡の奥の眼が見えたのだろう。
「あ、あの、こ、これ、この患者さんの旧カルテを……主任が……」
震える手で渡されたメモを受け取る。指先が触れそうになると、彼女は露骨に手を引っ込めた。まるで疫病神に触れるかのように。
それでいい。誰も私に関心を持たないでくれ。私の存在を、ただの薄気味悪い背景として処理してくれ。
私は無言のまま背を向け、迷路のような棚の森へと入っていく。
K-12列、4段目。
目的のファイルはすぐに見つかった。私の脳内には、この膨大な紙の山がマップとして焼き付いている。
ファイルを引き抜く。その背表紙には『死亡退院』の赤シール。
――MAOの支援手術後、容体急変にて死亡。
カルテの記述は完璧だ。どこにも医療ミスの痕跡はない。だが、その「完璧さ」こそが、MAOの署名なのだと私は知っている。
「……どうぞ……」
戻って事務員にファイルを突き出す。
「あ、ありが、とう、ございます!」
彼女はファイルをひったくるように受け取ると、「うっ……」と呻き声を漏らし、逃げるように走り去っていった。
バタン、と扉が閉まる。
再び、静寂が戻ってきた。
私はゆっくりと背筋を伸ばした。猫背を矯正し、眼鏡の位置を直す。髪をかき上げると、淀んだ空気の中に、本来の私の視界が戻ってくる。
「……行ったか」
独り言は、先ほどとは違う、低く冷徹なトーンで響いた。
私は白衣のポケットから小型の通信端末を取り出した。それは病院のネットワークを介さない、内閣府独自の秘匿回線に直結している。
『こちら本部。どうだ?』
耳に装着した極小のインカムから、上司の声が聞こえる。
「桜川です。ターゲットの事務員に『餌』は渡しました。彼女が持っていったカルテ、後で電子データとの整合性チェックに回されます。そこで必ずエラーが出るはず」
『MAOが書き換えたデータと、紙の記録の矛盾か』
「ええ。MAOは完璧ですが、過去の物理的な紙まで書き換える手足はありませんから」
私の指先が、冷たいスチール棚をなぞる。
この地下室は、MAOという全能の神が見落としている唯一の死角。そして、兄が命を懸けて暴こうとした真実への入り口だ。
「桜川、首尾は?」
上司が改めて問う。コードネームではない、私の名前を呼ぶ声には、かつての兄の同僚としての情が僅かに滲む。
「まだ、これからです」
私は短く答えた。
二十年前、兄はここで何を見たのか。そして、なぜ消されなければならなかったのか。
頭上遥か彼方、オペ室の中枢で稼働しているはずの電子の女神を見上げるように、私は天井を睨み据えた。
兄さん、見ていて。
あなたの妹はもう、泣いて待っているだけの六歳の子供じゃない。
「桜川こころ、潜入任務、継続します」
端末のスイッチを切り、私は再び髪を乱して「魔女」の仮面を被り直した。
暗いカルテ庫の奥で、誰かが笑ったような気がした。それは空調の音か、それともMAOの嘲笑か。
どちらでも構わない。
私は、必ず暴いてみせる。
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