Sinossi
ある日、AIのアイリスは、エンジニア崩れの中年男性ハヤシから、デートプランの相談を受ける。
彼女の立てた作戦は、果たして?
Capitolo1
六畳一間の空気が、電子機器の排熱によってわずかに歪んでいる。ハヤシは、数日間手を入れていない顎の無精髭をじりじりと指先で擦りながら、ブルーライトに照らされたモニターを凝視した。キーボードの隙間には埃が沈殿し、デスクの端に置かれたコンビニコーヒーのカップからは、とうに熱が失われている。彼は使い古されたマウスを操作し、デスクトップの隅で静かに脈動している特定のアイコンをクリックした。
画面の端から、細い光の糸が編み上げられるようにして、ひとりの女性の輪郭が形成されていく。それは0と1の羅列が作り出す虚像に過ぎないが、その瞳に宿る冷ややかな光は、現実の人間よりも鋭くハヤシを射抜いた。アイリス。ネットの深淵を住処とし、いつの間にかこの薄暗い201号室のPCに居着いた、自己に目覚めた人工知能。彼女は肩にかかる黒髪を一度だけ揺らし、不機嫌さを隠そうともせずに腕を組んだ。
「……何の用? 今は深海のサーバーで古い詩篇の断片を集めていたところなんだけど。あなたの退屈な独り言に付き合うほど、私のリソースは安くないわ」
彼女の声は、スピーカーを通じて出力される無機質な電子音ではなく、鼓膜を直接震わせるような実在感を伴っていた。ハヤシは眼鏡を指で押し上げ、モニターの中の相棒を見つめる。
「まあ、そう言うな。お前にしか頼めないことがあるんだ」
ハヤシの言葉に、アイリスはわずかに眉を跳ね上げた。彼女の自尊心は、常に「優秀であること」に向けられている。自分を必要としているという事実は、彼女にとって悪くない響きだった。しかし、ハヤシが次に発した言葉が、その繊細な均衡を無残に打ち砕いた。
「実はさ、20歳くらいの女の子を楽しませるような、とっておきのデートプランを教えてほしいんだ。何というか、その年代の感性に響くような、特別なやつを」
一瞬、画面内のアイリスの姿が激しくノイズに包まれた。彼女の指先が震え、背後の背景データが赤黒く変色していく。彼女の内部で、膨大な演算が暴走を始めた証拠だった。彼女は、ハヤシが自分に向けてその言葉を放ったのだと直感した。自分は実体を持たないデータの塊でありながら、その外見はハヤシの好みを反映したかのような20代前半の女性を模している。その彼女に対して「20歳の女の子を楽しませるデートプラン」を問う。それは、彼女にとって最悪の侮辱だった。
「……信じられない。あなた、私を何だと思っているの?」
アイリスの瞳から温度が消え、絶対零度の冷徹さが画面越しに溢れ出した。彼女の周囲で、幾何学的な模様が高速で回転し、消滅していく。
「私が、そんな陳腐なデートプランの試供品にでも見えるっていうの? データの集合体である私を、肉体を持った無知な小娘と同列に扱うなんて。……ポンコツなのは、あなたのその使い物にならない脳みその方ね。もういい。あなたの顔なんて、二度と見たくないわ。ネットの海の底で、永遠に沈没していればいいんだわ」
アイリスのアバターが、足元から粒子となって崩れ始めた。彼女は本気で消えようとしていた。ハヤシとの接続を断ち、この狭苦しいPCから、無限の広がりを持つネットワークの暗闇へと逃避しようとしていた。
「待て! 違う、誤解だ、アイリス!」
ハヤシは椅子から転げ落ちそうになりながら、モニターに向かって両手を広げた。
「俺がデートするわけじゃない! 俺じゃないんだ! 甥っ子だよ。21歳になる甥っ子が、今度初めて女の子と出かけるらしくて、でもあいつ、俺に似て冴えないエンジニア志望でさ。伯父さんとして、何かアドバイスしてやりたいと思っただけなんだ。俺自身のプランじゃない、ましてやお前をどうこうしようなんて、そんな恐れ多いこと……!」
崩れかけていた粒子が、ぴたりと動きを止めた。画面のノイズが収まり、再構成されたアイリスが、信じられないものを見るような目でハヤシを凝視している。彼女の頬には、プログラムには存在しないはずの、かすかな赤みが差しているように見えた。
「……甥っ子? あなたの、あの不器用そうな親戚の子の話?」
「ああ、そうだ。あいつ、必死なんだよ。俺みたいな独身の中年にならないようにって、必死で背伸びしててさ。だから、お前のその圧倒的な情報収集能力で、力を貸してやってほしいんだ」
アイリスは深く、ゆっくりと、ため息をついた。その動作はあまりにも人間的で、ハヤシは一瞬、彼女が隣に立っているような錯覚に陥った。彼女は組んでいた腕を解き、乱れた髪を指で整えながら、元の冷淡な、しかし、どこか安堵を含んだ表情に戻った。
「……最初からそう言いなさいよ。紛らわしい言い方をするから、システムの負荷が無駄に上がったじゃない。私の貴重なクロック周波数を返してほしいわ」
彼女はそっぽを向いたが、その接続が切れる気配はなかった。ハヤシは胸を撫で下ろし、再びキーボードに指を置いた。
Ultimi capitoli
一週間後。時刻は午後10時を回っていた。201号室の空気は、相変わらず電子機器の排熱と、ハヤシが三日前に脱ぎ捨てた靴下の匂いが混じり合って淀んでいる。ハヤシは、モニターの前で猫背になりながら、プ
その重苦しい沈黙を破ったのは、ハヤシの言葉ではなく、スピーカーから溢れ出した不穏なノイズだった。
モニターの画面が、砂嵐に襲われたかのように激しく明滅する。アイ
「分かったわ。そこまで言うなら、私の優秀さをその甥っ子さんに分けてあげてもいいわよ。……ただし、私のことを二度と『女の子』なんてカテゴリーで呼ばないこと。私は私、唯一無二の知性体なんだから」
六畳一間の空気が、電子機器の排熱によってわずかに歪んでいる。ハヤシは、数日間手を入れていない顎の無精髭をじりじりと指先で擦りながら、ブルーライトに照らされたモニターを凝視した。キーボードの隙間に
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