Synopsis
一人暮らしをはじめた女子大生のアイは、ある決意をする。
これは仮面の下に隠された、彼女の生存戦略の物語。
Chapter1
某アパートの202号室。一人暮らしをはじめた女子大生のアイは、日当たりだけが取り柄の、この部屋の主となった。段ボール箱の山を片付け、殺風景だった部屋に、少しずつ生活の匂いが染みついていく。大学までの道のり、近くのスーパーの品揃え、ゴミ出しの曜日。毎日が新しい発見の連続で、その一つ一つに小さな喜びを見出す一方で、心の奥底では、ずっと燻り続けているものがあった。
臆病で、人見知りで、いつも誰かの顔色を窺ってばかりの自分。そんな自分が、どうしようもなく嫌いだった。新しい環境は、新しい自分に生まれ変わるための絶好の機会のはずだ。なのに、結局は何も変われないまま、部屋の隅で膝を抱えているだけ。鏡に映る自分の姿は、あまりにも情けなくて、目を背けたくなる。
「このままじゃ、ダメだ……」
誰に言うでもなく、絞り出すような声が漏れた。変わりたい。変わらなければ。その一心で、スマートフォンの画面を何度もスワイプする。求人情報サイトに並ぶ、無数の文字列。その中で、ふと一つの募集が目に留まった。
『カフェ・ルミエール、新規スタッフ募集。所在地、〇〇駅前。未経験者歓迎』
カフェ。その言葉の響きに、漠然とした憧れがあった。お洒落な空間、コーヒーの香ばしい匂い、穏やかに流れる時間。そんな場所に身を置けば、自分も少しは洗練された人間になれるんじゃないか。そんな、あまりにも安直な期待。
不安に震える指で、応募フォームをタップする。心臓が早鐘のように鳴り、喉がカラカラに渇いていく。本当に、私にできるんだろうか。知らない人と話し、笑顔を振りまき、テキパキと仕事をこなすなんて。想像しただけで、足がすくむ。
それでも、ここで逃げたら、きっと一生このままだ。奥歯をぐっと噛み締め、震える指で必要事項を打ち込んでいく。名前、年齢、連絡先。そして、自己PRの欄で、指が止まった。
『明るく、人と接するのが好きです』
嘘だ。真っ赤な嘘だ。本当は、人と話すのは怖いし、できれば誰とも関わらずに生きていきたい。けれど、本当のことなんて書けるはずもなかった。私は、理想の自分を演じるための、最初の仮面をここで作り上げた。送信ボタンを押した瞬間、後戻りはできないのだと、自分の心に杭を打ち込むような感覚があった。
数日後、知らない番号からの着信に、心臓が飛び跳ねた。震える声で電話に出ると、落ち着いた男性の声が、面接の日時を告げた。電話を切った後、しばらくその場で動けなかった。嬉しさよりも、途方もない恐怖が全身を支配していた。
面接当日。クローゼットの奥から引っ張り出した、一番大人しく見えるブラウスに袖を通す。スカートの丈は大丈夫だろうか。髪は乱れていないだろうか。何度も鏡の前で自分をチェックし、深呼吸を繰り返す。
「笑顔、笑顔……」
鏡の中の自分に、必死に言い聞かせる。頬の筋肉を引き上げ、口角を無理やり持ち上げる。けれど、そこに映っているのは、引き攣った、哀れな表情だけだった。まるで、泣き出すのを必死に堪えているみたいに。
ダメだ、これじゃ。もっと、自然に。楽しそうに。幸せそうに。
「私は、愛想のいい子。人と話すのが大好きなの」
呪文のように、何度も、何度も唱える。そうしているうちに、不思議と、少しだけ気持ちが軽くなるような気がした。鏡の中の自分が、ほんの少しだけ、微笑んでいるように見えた。これは仮面だ。本当の私じゃない。そう思うことで、かろうじて平静を保つことができた。
カフェ・ルミエールは、駅前の雑踏から少しだけ外れた、落ち着いた路地にあった。ガラス張りの扉を開けると、カラン、と軽やかなベルの音が鳴り、焙煎されたコーヒー豆の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。木の温もりを感じる内装、壁に飾られた風景画、静かに流れるボサノバ。想像していた通りの、素敵な空間だった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、柔和な笑顔の男性が出てきた。年の頃は三十代後半だろうか。この人が、きっと店長だ。
「アルバイトの面接で参りました、アイです」
練習した通り、できるだけ明るい声で、そして、完璧な笑顔を顔に貼り付けて、私は言った。心臓は今にも張り裂けそうで、指先は氷のように冷たい。けれど、仮面の下の表情は、誰にも見えない。
店長は、私の履歴書に目を落としながら、いくつか質問をした。志望動機、希望のシフト、休みの日の過ごし方。私は、用意してきた模範解答を、淀みなく口にした。まるで、優秀な女優のように。
「アイさんは、とても明るい方なんですね。笑顔が素敵だ」
店長のその一言に、仮面の下で、安堵の息を漏らした。上手くいっている。私の演技は、通用している。
「ありがとうございます。人と話すのが、とにかく好きなんです」
最後の嘘を、とびっきりの笑顔で塗り固める。
「素晴らしい。ぜひ、うちで働いてもらえませんか」
採用、という言葉を聞いた瞬間、全身の力が抜けそうになるのを必死で堪えた。やった。やり遂げた。震えそうになる唇をきつく結び、私は深々と頭を下げた。
帰り道、足取りは覚束なかった。緊張の糸が切れて、ドッと疲れが押し寄せてくる。駅前の喧騒が、やけに遠くに聞こえた。アパートの部屋に駆け込むと、鍵をかけるのももどかしく、そのまま玄関にへたり込んだ。
「はぁ……はぁ……」
浅い呼吸を繰り返す。被っていた仮面を剥ぎ取るように、顔を手で覆った。指の間から、熱いものが込み上げてくる。それは、安堵の涙なのか、それとも、自分を偽ったことへの自己嫌悪の涙なのか、自分でも分からなかった。
それでも、私は一歩を踏み出したのだ。臆病な自分から抜け出すための、小さな、しかし確実な一歩を。
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リリさんへの謝罪は、想像していたよりも、ずっと簡単なことだった。いや、簡単ではなかったかもしれない。店のドアを開けるまでは、心臓が口から飛び出しそうだったし、彼女の前に立った時は、足が震えていた
リリは悩んでいた。
あの日、アイを問い詰め、すっきりしたはずだった。あの怯えきった顔を見た時、長年の胸のつかえが下りたような気さえした。偽物の笑顔が剥がれ落ち、
部屋のドアを閉め、鍵をかけた瞬間、アイは糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。暗い玄関の床の冷たさが、薄いワンピース越しに肌に染みる。リリさんの最後の言葉と、軽蔑に満ちた目が、脳裏に焼き付いて離れ
リリの心中は穏やかではなかった。
苛立ちが、腹の底で渦巻いていた。
アイ。あの子がこの店に来てから、全てが少しずつ狂い始めた。
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