鏡像のモノローグ
Zusammenfassung
雨音は、思考の隙間を執拗に叩く楔のようだった。
アトリエを支配するのは、湿った粘土と乾いた油彩の匂い。いつもならば心を落ち着かせてくれるはずのその混淆は、今夜に限って鼻腔の奥で不穏に絡みついている。天井近くに設えられた高い窓を、堰を切ったような雨粒が絶え間なく打ちつけていた。
Kapitel1
雨音は、思考の隙間を執拗に叩く楔のようだった。
アトリエを支配するのは、湿った粘土と乾いた油彩の匂い。いつもならば心を落ち着かせてくれるはずのその混淆は、今夜に限って鼻腔の奥で不穏に絡みついている。天井近くに設えられた高い窓を、堰を切ったような雨粒が絶え間なく打ちつけていた。
私の視線は、部屋の中央に鎮座するそれに釘付けになっている。
床に横たわる、見知らぬ男。
いや、本当に見知らぬだろうか。上質なツイードのジャケットも、きちんと磨かれた革靴も、どこかで見覚えがあるような気がしてならない。だが、最も視線を奪うのはその顔だ。滑らかな白磁を思わせる、無表情な仮面が、そこにあるべきはずの男の表情を完全に覆い隠している。
なぜ、こんなものがここに。
お前がここに置いたのだろう。
脳内に響く、自分のものであって自分でない声。冷たく、澄み切った、硝子を爪で引っ掻くような音質。私はその声を無視するように、ゆっくりと首を振った。記憶がない。昨夜、何をしていた? このアトリエで、いつものように修復品の陶器でも磨いていただろうか。それとも、新しいカウンセリングの予約者のカルテに目を通していたか。思い出せない。濃霧の中を手探りで進むように、思考はどこにもたどり着かない。
男は死んでいる。それは一目でわかった。不自然なほど整えられた四肢。ぴくりとも動かぬ胸。そして、仮面と顎のわずかな隙間から覗く肌の、血の気を失った蝋のような色。
ジャケットの胸元には、一輪の深紅の染みが、まるで不吉な花のように咲いていた。
誰が、彼を。
誰が、ではない。どうやって、だろう。心臓を一突き。実に手際がいい。無駄な傷ひとつない、完璧な仕事だ。
その声は、まるで他人の作品を評する美術評論家のように淡々としていた。私は奥歯を噛みしめる。違う。私は知らない。この男も、この血も、この仮面も。そうだ、仮面だ。この忌まわしい仮面を剥がしてしまえば、何かを思い出せるかもしれない。
仮面に近づく。陶器でできているのだろうか、鈍い光沢を放っている。完璧な左右対称。感情の起伏を一切拒絶した、神々しいほどに無感動な造形。それはかつて私が、ある富豪の依頼で古代の祭器を模して作り上げた作品に酷似していた。冷たく、美しく、そして空虚な貌。
いい出来栄えだろう? お前の最高傑作だ。
黙れ。
指先が、その冷たい表面に触れる寸前で凍り付く。怖いのか? 真実を知るのが。その仮面の下にあるものを、本当はお前、とうに知っているのではないか?
違う。
震える指を叱咤し、白磁の頬に触れた。ぞっとするような冷たさが、指先から腕を伝い、心臓を直接鷲掴みにする。裏側にこびりついた微かな血の匂いと、汗の酸っぱい匂いが混じり合って、吐き気を催させた。仮面を顔に固定している革紐に指をかける。後頭部で固く結ばれており、男の皮膚に深く食い込んでいた。その痛々しい痕が、なぜか自分のうなじが疼くような錯覚を呼ぶ。
解けないか。ならば、剥ぎ取るまでだ。
声に煽られるように、私は両手の指を仮面の縁にねじ込んだ。陶器と皮膚の隙間に爪を立て、力を込める。ミシリ、と骨が軋むような嫌な音がした。男のものではない。私の指の関節が悲鳴を上げている音だ。
もっと力を。さあ。ためらうな。お前が演じるべき次の幕が、そこにある。
うぉ、と獣のような呻き声が喉から漏れた。私は体重をかけ、渾身の力で仮面を顔から引き剥がそうとした。革紐が皮膚を引き裂き、肉に食い込む感触。べり、べり、と生々しい音を立てて、何かが剥がれていく。血糊か、それとも凝固した皮膚そのものか。
そして、仮面が外れた。
私の手の中で、それは依然として神々しいほど無表情なままだった。だが、私の視線はもはやそこにはない。
床に横たわる、死体の貌。
そこに広がっていた虚無を見つめて、私の呼吸は止まった。
「―――あ」
声にならない声が、乾いた唇から漏れる。
違う。そんなはずはない。これは何かの間違いだ。悪夢だ。雨音が生み出した幻覚だ。
そこに横たわっていたのは、私だった。
紛れもなく、鏡で幾度となく見てきた、見慣れた自分の顔。カウンセラーとして、人の話を聞くときに浮かべる穏やかな微笑でもなく。美術修復家として、作品に対峙するときの真剣な眼差しでもなく。ただ、すべての苦悩から解放されたかのように安らかな、しかし完全に生命の光を失った、私の顔。
前提が、世界が、足元から音を立てて崩れていく。
なぜ。なぜ私が、ここに死んでいる? では、今、こうして立っている私は、誰だ?
ようやく理解したか。愚かな男よ。
声が、嘲笑う。
死んだのは、『お前』だ。あの事件の夜、すべてに耐えきれなくなったお前は、自らその心を殺した。砕け散った陶器のように、修復不可能なほどに。
事件? どらいつ、だ。私は、覚えていない……。
嘘をつけ。忘れたふりをしているだけだろう。あの女の絶望した顔も、お前が守れなかった約束も。お前はその重みに耐えられなかった。だから、新しい自分を望んだ。もっと強く、もっと冷徹で、傷つくことのない、『理想の自分』を。
だから、お前が生まれたのか。
違う。俺は生まれたんじゃない。お前が、その手で俺を『造った』んだ。このアトリエで、粘土をこねるように。この仮面を彫り上げるように。そして、お前は自分の空っぽの身体を、その傑作に明け渡した。それが、今ここに立っているお前の正体だ。
絶望が、冷たい泥のように身体の芯から這い上がってくる。死体も、血痕も、仮面も。これは現実の殺人事件などではない。これは、私という存在が崩壊するのを防ぐために、定期的に行われる儀式なのだ。私の中に残った『かつての私』の残骸を殺し、確認し、そして『今の私』が主導権を握り続けるための、自問自答という名の処刑。
雨音が、いつの間にか遠のいていた。
東の空が、滲むように白み始めている。夜明けだ。
その光がアトリエに差し込むにつれて、私の足元の光景は淡く溶けていく。血の染みは色を失い、カーペットの模様に還っていく。死体――私の抜け殻――は、陽炎のように揺らめき、その輪郭を失っていく。手の中にあったはずの陶器の仮面も、いつの間にか消え失せていた。
残されたのは、いつものアトリエの静謐と、私の掌に刻まれた、革紐の赤い痕だけだった。
すべては、脳内で行われた劇。自己崩壊を防ぐための、痛々しい防衛機制。私は虚ろな目で、床の何もない一点を見つめた。終わった。今夜も、乗り切った。
その時だった。
ピンポーン。
澄んだ電子音が、静寂を鋭く切り裂いた。現実の音だ。警察か? いや、違う。この時間に訪れるのは決まっている。
私はふらつく足で立ち上がり、アトリエの隅に置かれた姿見の前に立った。鏡の中には、憔悴しきった、青白い顔の男が立っている。目の下には深い隈。血の気の失せた唇。これでは客は迎えられない。
「先生、おはようございます。予約しておりました者ですが」
ドアの外から、遠慮がちな若い女の声がした。
「新しい仮面を、頂きたいのですが」
新しい、仮面。
私は、鏡の中の自分に向かって、ゆっくりと息を吸った。そして、吐く。強張っていた頬の筋肉を緩め、口角をわずかに引き上げる。眉を下げ、目に、深い共感と慈愛に満ちた光を灯す。それは熟練の俳優が役に入るように、あまりにも自然で、滑らかな変化だった。
鏡の中の男はもう、憔悴した男ではなかった。穏やかで、思慮深く、どんな悩みでも受け入れてくれそうな、「優しい先生」の顔をしていた。
なあ。
脳内で、あの声が静かに問いかける。
それが、真実か?
私は鏡の中の「優しい先生」の貌のまま、心の中だけで答えた。
いいえ。
これが、私の仮面です。
その答えを聞いて、鏡の向こう側――「先生」の貌の奥で、冷酷な「影」が不敵に、そして満足げに笑ったのが分かった。
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