개요
ある日本人のある意味幸せな日常。
장1
朝、新宿駅の雑踏を抜けてオフィスビルへ向かう足取りには、目的もなければ情熱もない。ただ重力に従って、あるいは周囲の灰色の背中が作り出す緩やかな潮流に身を任せて、私は自分のデスクへと運ばれていく。私の名前は「マッド・つくるお」。無論、戸籍に記された記号ではないが、この社会という巨大な歯車の一部として機能する際、本名などという個人の魂に直結するような名称は、むしろ邪魔でしかない。誰が私を呼び、誰が私を評価するのか。その主体が曖昧である以上、記号は何だって構わないのだ。デスクに座り、電源ボタンを押し、冷却ファンの乾いた回転音が響き始めるまでの数秒間、私は自分が昨日まで何をしていたのかを、わざと思い出さないように努める。過去は堆積する塵であり、未来はまだ見ぬ不燃ゴミに過ぎない。この徹底した無関心こそが、現代という名の荒野を無傷で渡り歩くための唯一の装備であると、私は固く信じている。
午前十時を過ぎた頃、フロアの空気が一変する。それは物理的な気圧の変化に近い。廊下の向こうから、床を叩く不規則で暴力的な足音が聞こえてくる。私の直属の上司、名前を呼ぶのも憚られるその男が、今日もまた「怒り」という名の燃料を撒き散らしながら現れたのだ。男は私のデスクの横に立つなり、手にした書類を叩きつけた。その衝撃で、ペン立ての中のクリップがかすかに震える。男の口から発せられるのは、言葉という形を成した排泄物だ。論理もなければ建設的な提案もない、ただ己の内部に溜まった不快感を外部に転嫁するための、原始的な咆哮。私はその怒号を、まるで遠くの空で鳴っている雷鳴のように聞き流す。
馬耳東風、という言葉は、まさに私のためにある。私は男の目を見ることはせず、ただその顎のあたりに視線を固定し、男の皮膚の異常な質感について観察を深めることにした。
男の肌は、数ヶ月前と比較して明らかにその色調を変えていた。かつての脂ぎった赤ら顔は影を潜め、今では古い更生紙のような、あるいは湿った土壁のような、どんよりとした灰色がかった緑色を帯びている。不健康、という言葉では片付けられないほどの、生命力の減退がそこには透けて見えた。怒鳴るたびに、その土色の皮膚の下で細い血管がミミズのようにのたうち回り、不規則な拍動を刻んでいる。男は叫んでいる。「なぜこんなミスをしたのか」「責任感というものがないのか」と。しかし、その言葉の背後にあるのは、組織への忠誠心でも業務への情熱でもなく、ただ「自分を認めろ」という悲鳴に近い飢餓感だ。私は男の唾液がデスクの端に飛散するのを眺めながら、心の中で静かに分析する。この男は、怒ることでしか自分の存在を確認できないのだ。誰かを屈服させ、畏怖させることでしか、自分の輪郭を保てないほどに、その内側は空洞化している。
男の怒声はさらにボリュームを増し、周囲の社員たちが一斉に視線を伏せるのが分かった。フロア全体が、まるで巨大な捕食者の前に現れた小動物の群れのように、静まり返る。しかし、私はその沈黙を共有しない。私の内側には、男の怒りを無効化する特殊な緩衝材が備わっている。私は「マッド・つくるお」なのだ。ここではないどこか、もっと自由で、もっと混沌とした場所で何かを「つくる」ための仮の姿。このオフィスに座っているのは、私の抜け殻に過ぎない。抜け殻が何を言われようと、何をされようと、本体に傷がつくことはない。私は男の言葉を意味として理解することを拒絶し、ただの音波として処理する。高い周波数のノイズ、あるいは壊れたスピーカーから漏れるハウリング。そう処理してしまえば、ストレスは私の皮膚を滑り落ちていく。
男はひとしきり叫び終えると、荒い呼吸を繰り返しながら、私の反応を待っている。屈辱に歪む顔か、あるいは平身低頭な謝罪か。しかし、私が差し出したのは、無機質な「承知いたしました」という一言だけだった。感情の起伏を一切排除したその声は、男の期待を裏切り、さらにその不快感を煽ったようだった。男の喉が、何かを飲み込もうとするように大きく上下する。その瞬間、私は男の首筋に、死神の指先が触れたような黒ずんだ斑点を見つけた。それはシャツの襟元に隠れ、見え隠れしている。男は再び何かを言いかけたが、激しい咳き込みに襲われ、言葉を飲み込んだ。ハンカチで口元を覆うその手は、かすかに震えている。
「……二度と、こんなことはするな」
(二度とどなんな、怒鳴るたびに顔色悪くする上司。てめえがこの世からFiredされるぞ)
マッド・つくるおはそう胸中で付け加えた。
男はそれだけを言い残すと、逃げるように自分の個室へと戻っていった。残されたのは、重苦しい静寂と、男が撒き散らした不浄な空気の残り香だけだ。私はデスクに叩きつけられた書類をゆっくりと手に取り、整える。紙の端が少し折れている。私はそれを指先で丁寧に伸ばしながら、男の健康状態についてもう一度考えた。肌の色があれほどまでに悪化しているのは、内臓のどこかが悲鳴を上げている証拠だろう。誰に対しても怒鳴り散らし、自分自身の血圧を限界まで押し上げる生活を続けていれば、肉体が音を上げるのは時間の問題だ。まずその性格を直し、静かな場所で深呼吸でもすれば、少しはマシな色になるだろうに。しかし、それは私の知ったことではない。私は医者ではないし、ましてや彼の友人でもない。私はただの、適当に会社員をやっている「つくるお」なのだから。
昼休みになり、私はビルの屋上へと向かった。灰色のコンクリートに囲まれたその場所は、地上から切り離された浮島のような静けさがある。フェンス越しに街を見下ろすと、無数の自動車が血流のように道路を流れ、人々が蟻のように歩道を行き交っている。あの群れの中に、かつての私や、あの男も含まれているのだ。私はポケットから安物のサンドイッチを取り出し、無機質な味を噛み締める。風が吹き抜け、私のネクタイを乱暴に揺らした。ネクタイという名の首輪。誰もがそれを自ら首に巻き、飼い主のいないリードに繋がれて歩いている。
私はふと、自分の本名を思い出そうとしてみた。しかし、霧がかかったように輪郭がぼやけている。それは遠い昔に捨て去った、重たい荷物のようだった。本名が必要な場所など、この世のどこにあるというのだろう。契約書、住民票、銀行の通帳。それらはすべて、社会が私を管理するためのタグに過ぎない。私が私であるために必要なのは、名前ではなく、何を考え、何を拒絶し、何を「つくる」かという意志だけだ。私は「マッド・つくるお」として、この狂った世界を観察し続ける。
午後もまた、同じような時間が過ぎていった。会議という名の空転する議論、メールという名の責任転嫁。私はそれらの荒波を巧みに回避し、最小限のエネルギーで業務をこなす。周囲では同僚たちが疲れ果てた顔でパソコンの画面を見つめ、時折、ため息を漏らしている。彼らは真面目すぎるのだ。このシステムを真に受けて、自分自身の価値を仕事の成果と同一視してしまっている。だから、上司の一言に一喜一憂し、夜も眠れないほどのストレスを溜め込むことになる。私のように、自分を「マッド」だと定義してしまえば、世界の見え方は一変するのに。
夕刻、再び上司が個室から出てきた。その足取りは午前中よりもさらに不安定で、壁に手をつきながら歩いている。フロアを横切る際、彼は私の方を一度も見なかった。その横顔は、もはや生者というよりは、精巧に作られた蝋人形のようだった。肌の色はさらに沈み、照明の下で異様な光沢を放っている。彼は自分のデスクに座ると、力なく椅子に沈み込んだ。周囲の社員たちは、彼の様子に気づきながらも、誰も声をかけようとはしない。彼が築き上げてきた恐怖政治の代償が、この無関心という名の壁だ。
私は帰り支度を整えながら、ふと思った。もし明日、あの男がこの場所に来なかったらどうなるだろうか。誰かが悲しむだろうか。あるいは、誰かが安堵するだろうか。おそらく、どちらでもないだろう。組織という名の巨大な怪物は、欠けた部品を即座に補充し、何事もなかったかのように動き続ける。男が叫び続けた日々も、その怒りも、そして彼自身の存在も、瞬く間に忘却の彼方へと追いやられる。それがこの世界の論理だ。
私はオフィスを出る際、最後にもう一度だけ、男の背中を振り返った。彼は丸まった背中をさらに小さくし、消え入りそうな電球の下で、何かの書類を凝視していた。その姿は、自分の死を予感しながら、なおも現世の執着から逃れられない哀れな亡霊のように見えた。私は軽く肩をすくめ、エレベーターのボタンを押した。
ビルの外に出ると、夜の帳が降り、ネオンサインが毒々しい色彩を放ち始めていた。私は人混みに紛れ、再び「マッド・つくるお」としての自由を取り戻す。駅へと向かう道すがら、私は明日、何をつくろうかと考える。それは物理的な形を持つものではないかもしれない。ただの思考の断片か、あるいは誰にも理解されない奇妙な儀式かもしれない。だが、それこそが私が生きている証であり、あの男が決して手に入れることのできなかった、真の健康なのだ。
新宿駅の喧騒が、私を飲み込んでいく。人々の声、電車の発車ベル、広告の映像。それらすべてが混ざり合い、巨大なノイズとなって耳を打つ。私はその中に、かすかな、しかし確かなリズムを感じ取っていた。それは私の心臓が刻む鼓動であり、この狂った世界で踊り続けるための、私だけの音楽だ。私は一歩、また一歩と、自分だけの暗闇へと足を踏み入れていく。
改札を抜ける際、機械的なチャイムが鳴った。私はポケットの中で、使い古されたICカードを握りしめる。このカードに刻まれたデータこそが、今の私を証明する唯一の物理的な証拠だ。私はホームへと続く階段を下りながら、ふと、明日の朝食は何にしようかと考えた。そんな些細な、しかし確実な日常の選択こそが、私という存在をこの世界に繋ぎ止めている。
電車が滑り込んできた。強い風が吹き抜け、私の髪をかき乱す。私は列に並び、ドアが開くのを待つ。鏡のような窓ガラスに、一人の男の姿が映っていた。適当に会社員をやっている、どこにでもいるような、しかしどこにも属さない男。その男は、ガラスの向こう側で、ほんの少しだけ、不敵に笑ったように見えた。
私は吊り革を掴み、電車の揺れに身を任せる。隣に座っている男は、死んだような目でスマートフォンの画面をスクロールし続けている。その向かいでは、女子学生が楽しげに笑いながら、何事かを囁き合っている。生と死、絶望と希望、怒りと無関心。それらすべてを乗せて、鋼鉄の箱は夜の闇を切り裂いて走る。私は目を閉じ、意識を自分の内側へと沈めていく。そこには、誰にも邪魔されない、私だけの広大な工房が広がっている。私はそこで、明日のための、新しい「自分」を組み立て始める。
明日の朝、またあの灰色のビルへ行く。あの男がまた怒鳴るかもしれないし、あるいは静かに倒れているかもしれない。どちらにせよ、私の朝は変わらない。電源ボタンを押し、冷却ファンの音を聞き、馬耳東風を決め込む。そして、心の中で静かに笑うのだ。
「マッド・つくるお」の夜は、まだ始まったばかりだ。
新宿の夜空は、曇っていて星一つ見えない。しかし、地上には無数の光が溢れ、偽りの星座を作り出している。私はその光の海を泳ぎ、自分の巣へと帰っていく。明日という日が、今日と同じような、しかし決定的に違う一日であることを願いながら。
アパートのドアを開け、鍵をかける。その金属音が、今日という章の終わりを告げるピリオドのように響いた。私は暗い部屋の中で、ネクタイをゆっくりと解く。首筋に残る締め付けの感覚が、徐々に消えていく。私は窓を開け、外の空気を吸い込んだ。排気ガスの匂いが混じった、冷たい夜の空気。それが、今の私には何よりも美味しく感じられた。
私は机に向かい、古いノートを開く。そこには、誰にも見せることのない、私の「設計図」が書き連ねてある。私はペンを執り、新しい一行を書き加えた。
「肌の色が悪くなった男は、自らの怒りに焼かれて消えるだろう」
私はその言葉を満足げに眺め、ノートを閉じた。明日の準備は、これでいい。私はベッドに倒れ込み、深い眠りの淵へと落ちていった。夢の中で、私は見たこともない巨大な塔を建てていた。その塔の頂上からは、この狂った世界が、まるで箱庭のように美しく見えた。
翌朝、アラームの音が鳴り響く。私は重い瞼を開け、再び「マッド・つくるお」の皮を被る。鏡に向かってネクタイを締め、無表情な顔を作る。そして、玄関のドアを開けた。
外は、昨日と同じような灰色の空が広がっていた。しかし、私の足取りは、昨日よりもほんの少しだけ、軽やかだった。私は駅へと向かう人の流れに加わり、再びあの戦場へと向かう。
オフィスに入ると、昨日のままの空気が私を迎えた。デスクに座り、パソコンを起動する。冷却ファンの音が響き始める。廊下の向こうから、あの足音が聞こえてくるのを、私は静かに待っていた。
しかし、その日は、いつまで経ってもあの怒鳴り声は聞こえてこなかった。フロアには、奇妙なほど穏やかで、それでいて落ち着かない静寂が漂っていた。私は自分の業務を淡々とこなしながら、時折、上司の個室のドアに目をやった。ドアは閉まったままだ。
昼前、一人の社員が慌てた様子で個室から出てきた。その顔は青ざめ、震える手で電話をかけている。
「救急車を……早く!」
フロアがざわつき始める。私はその喧騒を、まるで映画のワンシーンのように眺めていた。やはり、そうか。私は心の中で呟いた。男の肉体は、ついにその限界を超えたのだ。
救急隊員が到着し、ストレッチャーに乗せられた男が運び出されていく。その顔は、昨日見た時よりもさらに土色を深め、もはや人間というよりは、干からびた果実のようだった。男の目は虚ろに開かれ、天井の蛍光灯を映している。
男が運び出された後、フロアには言いようのない開放感と、同時に、薄気味悪い虚無感が広がった。誰一人として、男の安否を本気で心配しているようには見えなかった。彼らはただ、これからの業務の滞りを懸念し、新しい上司が誰になるかを密かに計算しているだけだ。
私は再び、自分の業務に戻った。キーボードを叩く音が、規則正しく響く。私の内側では、何かが静かに完成へと近づいていた。男がいなくなっても、世界は変わらずに回り続ける。私の名前が「つくるお」であっても、そうでなくても、この現実は揺るがない。
私は窓の外に広がる、どこまでも続くビル群を見つめた。あの無数の窓の一つ一つに、誰かの絶望と、誰かの無関心が詰まっている。私はその巨大な集積体の一部として、今日もまた、適当に生きていく。
「マッド・つくるお」という名前を、私はもう一度、心の中で反芻した。それは、この不条理な世界に対する、私なりの唯一の抵抗の形だ。
私は再び、キーボードに指を置いた。画面の中のカーソルが、次の言葉を待って、せっかちに点滅している。私は深呼吸をし、静かに、しかし力強く、次の入力を開始した。
世界は狂っている。ならば、私もまた、狂ったまま、この場所で何かを「つくり」続けるしかないのだ。
夕闇が迫り、オフィスに再び明かりが灯る。私は、誰にも気づかれないように、ほんの少しだけ口角を上げた。
男が座っていた、主のいなくなった椅子が、照明の下で静かに光っている。
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「マッド・つくるお」。それが私の、この世界における唯一の真実を孕んだ呼称である。役所の冷たいプラスチックの椅子に座らされ、無機質な番号で呼ばれる際に提示する戸籍上の名前など、私にとっては、剥が
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