Synopsis
魔神の日。そう呼ばれる日から世界は一変した。
普通の風景が遠くに追いやられた。今あるのは崩壊した世界だけ。
月日リアナ。そんな世界で生き残った女である。
Chapter1
コンクリートの天井に反射した朝の光が、埃っぽい室内を白く染め上げていく。月日リアナは、固いマットレスの上でゆっくりと身を起こした。全身が軋むような感覚。もう慣れてしまった。部屋には、彼女の浅い寝息と、窓の隙間を吹き抜ける風の音以外、何も存在しない。
静寂が、この世界の標準だった。
「……ん」
小さく声をもらし、リアナは壁際に立てかけてあるペットボトルに目をやった。残りは、もう三分の一もない。棚に並べたレトルト食品の箱も、最後のひとつが昨日消えた。

「……行かなきゃ、か」
独り言が、乾いた空気に溶ける。誰に言うでもない言葉。ただ、そうやって声に出さないと、自分の思考さえもがこの静寂に飲み込まれてしまいそうだった。決断を後押しするための、ささやかな儀式。
腰を上げ、窓に近づく。カーテンの隙間から、灰色に沈んだ街並みを覗き見た。かつて新宿と呼ばれた場所。天を突き刺すように建っていた高層ビル群は、今や蔦に覆われ、窓ガラスの多くが抜け落ちた巨大な骸骨のようだ。人影も、動くものの気配もない。それでも、安心はできない。何が潜んでいるか、わからないのだから。
「よし……」
自分に言い聞かせ、リアナは部屋の隅に置いたバックパックを手に取った。中身はほとんど空だ。最低限の道具—小さな懐中電灯、何かの役に立つかもしれないと拾ったサバイバルナイフ、そして空の水筒。服装は、地味な色で。目立たないことが、何よりも重要だった。
ドアノブに手をかける前に、一度息を吸い、止める。耳を澄ませる。自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いた。……大丈夫。廊下からは何の音もしない。ゆっくりと、音を立てないようにドアを開け、隙間から外を窺う。薄暗いコンクリートの廊下。誰かがいる気配はない。
彼女の住処は、放棄されたマンションの十五階。エレベーターはとうの昔に止まっている。リアナは猫のように気配を殺し、非常階段の冷たい手すりを伝って地上へと降りていった。一段、また一段。自分の足音だけが、空虚な空間に反響する。
「……静か」
地上に出ると、風の音が少しだけ強くなった。アスファルトの裂け目からは雑草が力強く芽を吹き、世界がゆっくりと緑に還ろうとしているのがわかる。リアナは建物の壁に背を預け、大通りを慎重に窺った。放置された車が錆びたオブジェのように点在している。
今日の目的地は、ここから五百メートルほど先にあるコンビニエンスストアの廃墟。何度も通った、比較的安全なルート。それでも、油断は禁物だった。
「……行こう」
呟きは、ほとんど吐息と同じだった。リアナは壁伝いに移動を始める。開けた場所は避け、車の陰や建物の瓦礫の影から影へと、素早く渡っていく。大学二年生までの彼女は、こんな風に自分が廃墟を駆け抜けることになるなんて、想像すらしたことがなかった。教育学部の講義、友達との他愛ないお喋り、サークルの飲み会。そんな日常が、まるで遠い前世の記憶のようだ。
ふと、ガラスの砕けるような甲高い音が遠くで響いた。
「っ……!」
リアナは瞬時に近くの乗用車の陰に身を屈めた。心臓が喉までせり上がってくる。息を殺し、音のした方向を睨みつける。風の悪戯か、何かの動物か、それとも—。
数分間、身じろぎもせずに待つ。だが、それきり物音はしなかった。張り詰めていた肩の力を、ゆっくりと抜く。
「……ただの、風……」
そうであってほしい、と祈るような気持ちで呟いた。この世界では、希望的観測もまた、生き抜くための技術のひとつだった。
目的のコンビニが見えてきた。ガラス張りの正面はほとんどが割れ落ち、自動ドアは開いたままで固まっている。かつては二十四時間、煌々と明かりが灯っていた場所。今では、薄暗い洞窟の入り口のように不気味だ。
店の前で再び立ち止まり、中の様子を窺う。誰かが潜んでいる可能性は常にある。入り口付近に散らばった雑誌やゴミの配置に、昨日と変わったところはないか。記憶と照らし合わせる。
(……大丈夫、多分)
リアナはナイフを握りしめたまま、静かに店内へ足を踏み入れた。床に散らばったガラス片が、足元でじゃり、と小さな音を立てる。鼻をつくのは、埃と、何か得体の知れないものが腐敗したような、甘く不快な匂い。
「……ひどい」
棚の商品はほとんどが床に散乱し、金目のものや保存食の多くは、とうの昔に持ち去られている。それでも、丁寧に探せば、まだ何か残っているはずだった。他の生存者が見逃した、僅かな残り物を。
彼女はまず、飲料のコーナーへ向かった。冷蔵ケースの扉は開け放たれ、中は空っぽだ。だが、棚の奥や下に、奇跡的に残っているものがあるかもしれない。
「……水、お茶……」
しゃがみ込み、棚の最下段の奥に手を伸ばす。指先に、ひんやりとしたペットボトルの感触があった。引きずり出すと、ラベルの剥がれかけた緑茶のボトルだった。未開封だ。
「……あった」
安堵の息が漏れる。それだけで、ここまで来た甲斐があった。バックパックにそれをそっとしまう。

次に狙うのは、調理不要で食べられるもの。カップ麺の棚は壊滅状態だった。乾燥した麺が床に散らばっている。スナック菓子のコーナーも、ほとんど空の袋ばかり。それでもリアナは諦めずに、一つ一つの棚を丹念に調べていく。棚の裏、ひっくり返った什器の下。
ふと、一番奥の菓子棚の隅、他の商品の陰になっている場所に、見慣れた黄色い箱が押し潰されているのが見えた。カロリースナック。チーズ味。箱はひどく歪んでいたが、中身は無事かもしれない。
手を伸ばし、慎重にそれを引き抜く。幸い、中の銀色の袋は破れていないようだった。
「……ラッキー」
小さな、本当に小さな幸運。だが、今の彼女にとっては、世界で最も価値のある宝物のように思えた。水と、数日分の食料。これでまた、少しだけ生き延びられる。
ふと、彼女は店内の配置に違和感を覚えた。レジカウンターの裏。いつもはもっと雑然としているはずの場所が、少しだけ片付いているように見える。誰かが最近、ここで何かを探した…? それとも、ただの気のせいか。
嫌な予感が背筋を走る。長居は無用だ。
リアナはもう一度だけ店内を見回し、他にすぐ見つかりそうなものがないことを確認すると、静かに出入り口へと向かった。外に出る前にもう一度、左右を確認する。さっきの物音のことも気にかかる。遠くのビルの窓が、不意にきらりと光った気がした。光の反射か、それとも…。
考えるのをやめた。
(今は、無事に帰ることだけを考えよう)
来た時と同じように、建物の影を縫って、リアナは自分の住処へと急いだ。背中に背負ったバックパックの、ささやかな重みが心強い。それは、彼女が今日一日を生き抜いた証であり、明日へと繋がる命そのものだった。
十五階までの長い階段を上りきり、自室のドアを開けて中に滑り込む。内側から鍵をかけ、 バリケード代わりにしている重い本棚をドアに押し当てて、ようやくリアナは壁に背を預けてずるずると座り込んだ。
「……はぁ……疲れた……」
全身の緊張が解けていく。バックパックから、今日手に入れた戦利品を取り出した。緑茶のペットボトルと、歪んだカロリースナックの箱。それを、食料を置いている棚に丁寧に並べる。空だった棚に、二つの品が加わった。
ほんの少し、空間が満たされた。
リアナは窓辺に立ち、夕暮れに染まる廃墟の街を見下ろした。巨大な墓標のように静まり返った世界で、自分はただ、生きている。明日も、その次の日も、こうして食料を探しに行くだけの日々が続くのだろうか。
答えはない。ただ、棚に置かれたカロリースナックの黄色い箱が、夕日を受けて、ほんのわずかに暖かく光っていた。
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