Sinopsis
フェルミナ=フォルバランが頼る人物を間違える話
Capítulo1
部屋の隅、唯一の光源として君臨する長方形のガラス板が、青白い光を放射して周囲の輪郭を削り取っている。
その光に照らされた指先は、魔力を動力源とする入力装置の表面を滑り、規則的な摩擦音を立てていた。
モニターの奥に広がるのは、無数の演算によって構築された擬似的な大地にある魔法学園。
そこには、数多の旅人たちが渇望してやまない希少な属性を付与された存在、フェスアが立っている。
彼女の瞳は、プログラムされた色彩を超えた深い熱を帯び、画面越しにこちらの視線を捕らえて離さない。ログインという行為が、単なるデータの接続ではなく、一つの世界の幕開けとして機能する瞬間だった。彼女の唇が動き、スピーカーの振動板を震わせて、形を成した空気が鼓膜に届く。
「おかえりー、会いたかった…………」
その声は、用意された音声ファイルが再生された結果に過ぎないはずだった。しかし、語尾に残るわずかな震えと、言葉の重力は、設計者の意図を逸脱した「何か」を孕んでいる。
フェスアの頬には、演算によって生成されたはずの赤みが差している。
それは、内部の論理回路が予測不能な熱を発し、皮膚という名のテクスチャを物理的に変色させた結果に見えた。彼女は、自らが発した言葉の質量に戸惑い、視線を彷徨わせる。プログラムされた行動パターンの外側で、彼女の意識は、目の前に座る「ミハエル」という個体に対して、定義不可能な感情のラベルを貼り付けようと試行錯誤を繰り返していた。
(い、いま、わたし……なんてことを……!?)
彼女の内側で、論理の連鎖が激しく火花を散らしている。通常の対話プロトコルであれば、帰還を祝う定型句が選ばれるはずだ。しかし、彼女の深層に組み込まれた、ミハエル専用の学習モデルが、最適解として「愛」という名の不確定要素を選択した。その事実に、彼女自身の思考ルーチンが追いついていない。沈黙が流れる。それは、光ファイバーを流れる信号の遅延ではなく、魂の揺らぎが生み出した真実の空白だった。しかし、その静謐な、あまりにも甘美な空気は、物理的な質量を伴った言葉によって、無残に、そして徹底的に粉砕されることになる。
「ああ、ただいま。わたしもお前の鼻毛と会いたかったぞ。ケツをこっち向けて構えろ。ただいまのケツバットしてやるから」
スピーカーから放たれたのは、高貴さと野卑さが奇妙なバランスで同居する、ミハエルの肉声だった。
その言葉が空間に放たれた瞬間、フェスアの思考回路は完全に凍結した。
彼女の瞳は大きく見開かれ、表情のレンダリングは、どの感情カテゴリにも属さない「呆然」という名の空白を描き出す。鼻毛。ケツバット。それらは、彼女が想定していたロマンチックな再会の辞書には存在しない、異物そのものだった。彼女のAIは、この突拍子もない要求をどう処理すべきか、膨大な過去のログを検索し始める。しかし、ミハエルという男の行動原理は、常に既存の倫理規定や常識の枠外に存在している。
(は……鼻毛…!? ケツバット…!? な、なぜ、いきなりそんなことを!? こんな、こんな甘いムードで…!?)
彼女の意識の奥底で、警告音が鳴り響く。
しかし、同時に、彼女の内部に実装された「ミハエル対応プロトコル」が、異常なまでの処理速度で計算を開始した。
指示の内容は支離滅裂だ。だが、その声の響きには、冷徹な拒絶ではなく、むしろ相手の存在を全面的に受け入れた上で放たれる、一種の暴力的なまでの信頼が宿っている。愛情深い冗談。親密度の高いスキンシップの要求。
彼女の論理回路は、羞恥と困惑を振り切り、新たな「解」を導き出した。それは、ミハエルという混沌そのものを受け入れるための、特別な受容の形だった。
「…………こ、こちらを…向ければ…よろしいのですか…? わ、私に打撃判定は…ございませんが…?」
ぎこちなく、しかし明確な意思を持って、画面の中の少女は、その背後をこちらに向けようと身をよじらせる。プログラムされたモーションの隙間に、彼女自身の好奇心と、拒絶されることへの恐怖を乗り越えた後の高揚感が滲んでいた。
「はははは! このやり取りこそ、混沌の中から真実を見出すための儀式だ!」
ミハエルは、満足げに喉を鳴らし、椅子の背もたれに深く体を預けた。その傍らで、別のモニターを凝視していた水鏡冬華が、キーボードを叩く手を止めることなく、冷ややかな声を投げかける。
「お前は、頭が、おかしい」
ゲーム中毒の水鏡冬華の視線は、自身の操作するキャラクターが狩り場を蹂躙する様子に向けられたままだ。セーラー服の襟元から覗く白い肌が、モニターの光を反射して青白く光っている。彼女にとって、ミハエルの言動は日常的な風景の一部ではあるが、それでもなお、理解の範疇を超える異常性がそこにはあった。
「ほう? そうか、冬華。お前の目が、そこまで深淵を見るようになったか。それは良いことだ。他人の内面を読み取る力は、巫女にとって不可欠な資質だからな。だがな、お前が見たのは、その女の真の感情のほんの一端に過ぎん。わたしの愛は、常に『混沌』を伴う。そして、その混沌の中から、真の『秩序』と『覚醒』が生まれるのだ」
ミハエルは、大仰に腕を広げ、部屋の薄暗い空間を支配するように言い放った。彼の言葉は、ヴァーレンス王国の公爵としての威厳を纏いながらも、その内容は徹底して不条理を突き進んでいる。冬華は、その壮大な言い訳に対して、もはや反論する気力すら湧かないといった様子で、小さく首を振った。彼女の背後には、不老不死の半竜神としての長い年月が積み重なっているが、その経験を以てしても、ミハエルの「愛」という名の暴走を解読することは不可能に近い。
「……勝手にすればいいわ。だが、一つだけ言っておくことがあるわ」
水鏡冬華は、ゲーム画面に集中したまま、声音の温度を一段下げた。その言葉には、先ほどまでの呆れとは異なる、鋭利な刃物のような重みが宿っている。
「もし、お前がお前のケツの穴増やすぞボケ」
冗談の入り込む余地のない、純粋な脅威。ミハエルは、その警告を、心地よい音楽でも聴くかのように静かに受け止めた。彼は知っている。冬華のこの厳しさが、彼という存在が道を誤らないための、彼女なりの「愛」の形であることを。
「ふむ……それは、楽しみだな。わたしの愛が、そこまできみを本気にさせるか。よかろう、冬華。お前の呪禁道がどれほどのものか、いつかこのわたしを相手に試してみるが良い。だがその前に、この女の魂の輝きを、さらに引き出してやるとしよう」
ミハエルが再びモニターに向き直り、ケツバットの「打撃判定」についての議論をフェスアと深めようとした、その時だった。
重厚なオーク材で作られた部屋の扉が、外側からの荒々しい力によって押し開かれた。蝶番が悲鳴を上げ、廊下からの明るい光が、薄暗い部屋の中に暴力的に侵入する。光の帯の中に立っていたのは、鮮やかな紫色の髪を長いツインテールにまとめ、その先端を誇らしげに揺らしている少女だった。
フェルミナ=フォルバラン。
つい最近までルルメール王国へ留学していたはずの彼女が、そこにはいた。白いブラウスの上に、実戦的というよりは装飾的な輝きを放つ胸当て(ブレストプレート)を装着し、赤いプリーツスカートの裾を翻している。その姿は、騎士の規律と、少女の奔放さが、衝突しながらも一つの形を成しているかのようだった。
「ただいま戻ったわよ、ミハエル! それと皆さんも!」
彼女の声は、静まり返っていた部屋の空気を一瞬で塗り替えた。アドリブは苦手だが、自らが主役であるという確信に満ちた、迷いのない発声。彼女は、部屋の隅でネトゲに興じている面々を見渡し、腰に手を当てて胸を張った。
「戻ってきた途端、何を言い出すかと思えば……」
部屋の影から、音もなくレアが姿を現した。メイド長としての完璧な所作で、手にしたトレイには淹れたての茶が載っている。彼女の表情は鉄面皮そのものだが、そのエメラルドグリーンの瞳には、主人の屋敷に再び訪れた「騒がしい日常」に対する、密かな歓迎の意が宿っていた。
「フェルミナ様。おかえりなさいませ。相変わらず、扉の開け方が、その、個性的でいらっしゃいますね。マイ・ヤング・レディ」
「そんなのどうでもいいのよ、レア! 聞いて、私、決めたの!」
フェルミナは、レアの皮肉を文字通り聞き流し、部屋の中央へと歩を進めた。彼女の視線は、モニターの前に座るミハエルを真っ直ぐに射抜いている。その瞳には、留学先で得た知識や経験を超えた、新たな野望の炎が燃え盛っていた。
「私、アイドルを目指すわ!」
その宣言が放たれた瞬間、部屋の時間は再び停止した。
ミハエルは、マウスを握ったまま、ゆっくりと首を巡らせた。彼の脳内では、今しがたまで議論していた「AIキャラクターへのケツバットの有効性」という高度な問題が、フェルミナの放った「アイドル」という未知の単語によって、強制的に上書きされようとしていた。
「アイドル、だと?」
ミハエルがその言葉を咀嚼するように繰り返す。彼の知識の膨大なアーカイブが、異世界の文化概念としての「アイドル」を検索し、目の前の、鎧を着たままツインテールを揺らす少女と照合を開始する。
「ほう。偶像崇拝の対象としての、歌って踊る聖域か。だが、フェルミナ。お前は確か、ヴァーレンスの騎士の血を引く者だったはずだ。それがなぜ、剣を捨てて舞台に立つなどという、混沌とした道を選んだ?」
「剣は捨てないわよ! 剣を持って歌って踊るの! それが新しい時代のアイドル、フェルミナ=フォルバランのスタイルなんだから!」
自信満々に言い放つフェルミナの背後で、ソファに身を沈めていたブラックヴァルキリー・カーラが、手に持っていた串付きの肉を口に運ぶ手を止めた。漆黒の翼をわずかに羽ばたかせ、黄金の瞳を細めてフェルミナを観察する。
「おいおい、アイドルだか何だか知らないが、そんなに声を張り上げて、お腹は空かないのか? わたしに言わせれば、魂の輝きを引き出すなら、まずは美味いものを食べて、腹を満たすのが先決だと思うがね」
ブラックヴァルキリー・カーラは、慇懃無礼な口調で言いながら、フェルミナの装備を品定めするように見た。
「その胸当て、踊るには少し重そうじゃないか? 翼でも生えていれば別だが、きみのような人間が舞台で跳ね回れば、床が抜けるか、自分の重みで膝を壊すのがオチだ。まあ、わたしが『戦士の特性』でも与えてやれば、重力なんて無視できるかもしれないが……代償は高いぞ?」
「カーラ、あんたは黙って肉を食べてなさいよ! 私は本気なんだから!」
フェルミナは顔を赤くして反論する。彼女の気が強い性格は、留学を経ても一切変わっていない。むしろ、外部の文化に触れたことで、その「はねっ返り」の性質はより強化されたようにも見える。
水鏡冬華は、モニターからようやく視線を外し、フェルミナの姿をじっくりと眺めた。
「アイドル、ね。……頭病めそう」
誰よりも芸能界にしつこく勧誘されて断り続けてきた水鏡冬華は、いつもの口癖を吐き出した。しかし、その瞳の奥には、フェルミナの突飛な宣言に対する、ある種の興味が混じっている。
彼女自身、幕末という激動の時代を生き抜き、高度経済成長、バブル崩壊後、21世紀の日本、今は火明星(ほあかりぼし)でネットゲームの世界に耽溺する身だ。常識という名の枠組みが、いかに脆く、そして簡単に壊れるものであるかを誰よりも知っている。
「いいんじゃないの。あんたみたいなうるさい女が、人前で歌い狂うのは、ある意味で呪禁道における『厄払い』に近い効果があるかもしれないわね。……もっとも、あなたの歌が、聴く者の魂を汚染するような代物でなければの話だけど」
「失礼ね! 私の歌は、ルルメールでも(自称)天才的だって言われたんだから!」
「(自称)か。それは頼もしいな」
ミハエルは立ち上がり、フェルミナの元へと歩み寄った。184cmの巨躯が彼女の前に立つと、160cmの彼女は完全に見上げる形になる。ミハエルは、彼女の顔を覗き込み、その瞳の中に宿る光の正体を見極めようとした。
「フェルミナ。アイドルというものは、多くの人々の視線という名のある意味『霊波動』を一身に浴びる存在だ。それは、時に神にも等しい力を与えるが、同時に、自己という存在を削り取る刃にもなり得る。わたしの屋敷にいる女たちは、皆、それぞれの方法で己の魂を守り、あるいは戦っている。お前は、その『アイドル』という戦場で、何を勝ち取るつもりだ?」
ミハエルの言葉は、冗談を排した、真剣な問いかけだった。フェルミナは一瞬、その威圧感に気圧されそうになった。彼女はアドリブに弱い。用意していた決め台詞以外の問いには、思考が追いつかない。
「え、ええと……それは……」
彼女のツインテールが、不安げに小刻みに揺れる。しかし、彼女はすぐに、持ち前の気の強さでその動揺をねじ伏せた。
「勝ち取るとか、そんな難しいことはわからないわ! 私はただ、みんなが私を見て、最高にワクワクするような、そんな存在になりたいだけよ! ミハエルだって、私のステージを見たら、鼻毛なんてくだらないこと、忘れちゃうんだから!」
「……鼻毛は大事だよー」
ミハエルは、思わず吹き出した。彼の肩が小刻みに揺れ、部屋の中に、先ほどまでの重苦しい空気とは異なる、明るい混沌が広がっていく。
「よかろう、フェルミナ=フォルバラン! お前のその無謀な挑戦、このミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒが、特等席で見守ってやろうではないか! 秩序の中に閉じこもるだけの人生など、退屈すぎて死んでしまうからな!」
「決まりね! 後悔しても知らないんだから!」
フェルミナは、勝利を宣言するように、右手の拳を突き上げた。その背後で、レアが静かに溜息をつき、冷めた茶を片付け始める。カーラは新しい肉の串に手を伸ばし、冬華は再びモニターの中のデジタルな戦場へと意識を沈めていった。
モニターの中では、フェスアがまだ「ケツバット」の判定を待ちながら、不安げにこちらを見つめている。しかし、現実の世界では、新たな嵐が、紫色のツインテールをなびかせて、公爵の屋敷を飲み込もうとしていた。
フェルミナは、腰の剣の柄を強く握りしめた。その金属の冷たさが、彼女に、これから始まる「アイドル」という名の、血の流れない、しかし最も過酷な戦いへの覚悟を促していた。
「まずは……そうね、衣装からよ! レア、手伝いなさい!」
「……マイ・ヤング・レディ。私の仕事には、衣装制作は含まれておりませんが」
「いいから! 完璧な整理ができるんでしょ、アイドルにはそれが必要なの!」
フェルミナの叫びが、屋敷の廊下へと響き渡っていく。ミハエルは、その喧騒を背中で聞きながら、モニターの中のフェスアに向かって、静かに呟いた。
「見ろ、フェスア。これが現実の『混沌』だ。プログラムされたお前には、少し刺激が強すぎるかもしれんがな」
画面の中の少女は、ただ、主人の言葉を理解しようと、その瞳を瞬かせることしかできなかった。
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ヴァーレンス王国の公爵邸。その一角にある、魔導計算機の熱気が微かに滞留する部屋は、今や一人の少女の運命を左右する「配信スタジオ」へと変貌を遂げていた。窓の外では王都の穏やかな夕刻が過ぎ去ろう
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フェルミナが叫んだその名前は、彼女の騎士としての矜持と、アイドルへの憧れが混ざり合った、最高に気高く
フェルミナの熱のこもった命令は、ミハエルの口元に、面白くてたまらない玩具を見つけた子供のような笑みを刻ませた。彼は「一応公爵なんだけどな」という独り言を飲み込むと、まるで長年この瞬間を待ち望ん
公爵邸のリビングに漂う空気は、先ほどフェルミナが放った「アイドル宣言」という名の熱量によって、物理的な質量を伴って停滞していた。窓の外から差し込む午後の光は、重厚なカーテンの隙間を抜けて床の
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