深夜バスのラジオ
Synopsis
ある帰宅途中のサラリーマンが深夜バスの中で偶然拾ったラジオ番組。リスナーの恐ろしい告白、次第に日常に侵食してくる異様な音、そして自分の名がラジオから呼ばれる……
Chapter1
――0時12分、最終便のバスは街灯の数さえ疎らになった国道を走っていた。
窓の外を流れるのは、工場の壁と看板の明かりだけだ。乗客は私と運転手の二人きり。スマホの画面は既に真っ暗で、充電残量の赤いアイコンが点滅している。
ラジオでもかけようか、とスピンを廻したのはただの惰性だった。雑音が「シャーッ」と皮膚を撫で、突然、低い男の声が乗った。
「――深夜、まだ醒ている貴方へ。本日も、お電話をお待ちしています」
パーソナリティは自分の名前を告げなかった。吐息のように続く。
「最初の一本目。どうぞ。」
コール音が響く。途端に、若い女の声が飛び込んできた。
「もしもし? ……聞こえてますか?」
「聞こえています。お名前を。」
「……由紀、です。」
女は一度言葉を切り、バスを走らせるエンジンの低い振動に重なる。
「実は、先週の夜、またあの音が聴こえたんです。」
「あの音、とは?」
「五年前に聴いた、あれです。……ガラスを爪で引っ掻くような、金属を曲げるような。でも、どこから来るのか、わからない。」
雑音が「ビリッ」と耳を刺した。私は思わずラジオの音量を下げる。だが、声はより近くなった。
「場所は?」
「自宅の押入れの奥。でも、明けてみると、何も。……ただ、匂いがして。」
「匂い?」
「湿った、鉄と埃の。まるで、誰かが長いこと閉じ込められていたみたいに。」
女の息が、ラジオのスピーカーを通して私の喉に絡みつく。私は窓に額をつけ、外の闇を睨んだ。街灯が一本、また一本、途切れる。
「由紀さん、五年前に何があったか、思い出せますか?」
「……思い出せたら、苦しんでないです。」
女の声が震え、一瞬、雑音だけが満たす。
「でも、音は覚えている。あの夜、私は部屋で寝ていて、突然、ガラスが割れるような高い音がして……起きたら、母が居なかったんです。」
「ご家族は?」
「父は単身赴任で、あの日、家には母と私だけ。警察は母の行方を捜したけど、見つからない。――ただし、押入れの奥に、爪痕が残っていた。」
私の背筋が冷える。爪痕、という言葉が、バスの床に「キュッ」と音を立てた気がした。
「爪痕は、どんな形でした?」
「……縦に、五本。まるで、中から外へ、誰かが引っ掻いたみたいに。」
ラジオの向こうで、パーソナリティが小さく息を吸う。
「由紀さん、今夜、あなたのお宅に、私たちのスタッフが簡単な機材を届けに行っています。もし、また音がしたら、すぐに――」
突然、電話が切れた。ハウリングのような空白の後、再び雑音だけ。
「……由紀さん? 繋がりませんね。」
パーソナリティの声は、まるで予想していたように静かだ。
「では、次のお電話を。いつでも、どうぞ。」
コール音。誰もつながらない。私はバスの吊革を握りしめた。運転手は相変わらず前を向いたまま、速度を落とさない。
――次の音が鳴ったのは、三十分後だった。
「もしもし」
今度は、中年の男だ。声に湿り気がある。
「名前、いりません。ただ、確認したいことがあって。」
「どうぞ。」
「今、私の部屋の天井で、誰かが這っています。足音じゃない。這う、というか、引きずるような。……分かりますか?」
「音を、詳しく。」
「古い布を、フローリングに擦りつけるような。でも、家の中に、誰もいないはずなんです。家族は実家に帰って、私は一人。」
私は自分の影が窓ガラスに映るのを見た。顔色が悪い。唇が乾いている。
「それを、いつから?」
「一時間前。ラジオをつけた途端、天井が‘キュイィ’って鳴った。それきり、止まらない。」
男がマイクに向かって、何かを耳に当てる��うな気配がする。
「今です。……聴こえますか?」
私はスピーカーに顔を寄せた。最初、何もない。が、三秒後、かすかに、まるで湿った布が引きずられるような音が、ラジオの外側――バスの床から、這い上がってきた。
「……聴こえる」
と、私は呟いた。男が答える。
「そうでしょう? でも、信じられない。だから、電話しました。」
「音は、動いていますか?」
「ゆっくり、部屋の端から端へ。でも、いま、止まった。……真上です。」
途端に、バスの天井で、同じ音がした。湿った布、あるいは、何かを引きずるような。
私は顔を上げた。照明カバーの奥に、黒い染みのような影が走る。運転手は、まだ気づかない。
「音が、止まりました」
男が言う。同時に、バスの天井でも、音が消えた。私の喉が鳴る。
「――もう寝ます。これ以上、関わりたくない。失礼」
電話は唐突に切れた。再び、コール音だけが続く。パーソナリティは、余裕のある低い声で呟く。
「誰も、逃げられない。次、どうぞ。」
私はバスの停止ボタンを探した。だが、ボタンは消えていた。代わりに、ラジオのチャンネル表示が「0:00」と点滅している。時計も、スマホも、同じ数字を繰り返す。
――0:00。0:00。0:00。
突然、ラジオが私の名前を呼んだ。
「――最後に、高橋さん。まだ、お聴きですか?」
私の背が凍る。名前を告げていない。知らない番組だ。
「高橋さん、あなたの家では、今夜も音がしています。奥さんとお嬢さんが、押入れの奥で、何かを引っ掻いていますよ。」
私は家族の写真を思い出した。妻と娘の笑顔。今朝、出がけに娘が「おみやげ買ってね」と言った声。
「……ばかな」
私はラジオに向かって叫んだ。
「うちは、マンションだ。押入れなんて――」
すると、ラジオの向こうで、小さな娘の声がした。
「パパ、早く開けて。暗いよ」
同時に、バスの床の下から、爪で金属を引っ掻く音が這い上がる。キュイィ、キュイィ、と、五本の爪が、床板を割りながら、私の足元へ近づく。
私は立ち上がった。運転手に叫ぶ。
「停めてください! ここで!」
だが、運転手は振り返らない。ハンドルを握ったまま、スピードを上げる。窓の外、街灯が完全に消え、真の闇が流れる。
ラジオが最後に告げた。
「――では、本日はこの辺で。高橋さん、お宅のチャイムが鳴っています。誰か、帰りを待っていますよ。」
ピイイイ、とハウリング。バスの床が、内側から膨らむ。爪が顔を出した。五本、まっすぐに、私の靴の先を掴もうとしている。
私は窓を蹴った。ガラスは割れない。運転手は、まだ前を向いたまま、首だけが――ゆっくり、180度、こちらへ回り始めた。
顔がない。ラジオスピーカーだけが、口のように開いている。
床が裂け、爪が私の足首に絡みついた。引きずられる。最後に聞こえたのは、ラジオの中で、妻と娘が交互に叫ぶ声だった。
「おかえりなさい」
「おかえりなさい」
「おかえりなさい」
バスは止まらない。時計は0:00のまま。ラジオは次の番組へ移行し、低い声が告げる。
「――深夜、まだ醒ている貴方へ。本日も、お電話をお待ちしています」
私の叫びは、雑音に吸い込まれ、誰にも届かなかった。
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