次のお便りは…
Synopsis
定年退職を迎えたある男性が、帰り道になんとなくスマホアプリで聞いていたラジオから流れる内容に自身の過去を彷彿とさせられる。
でも、そんなはずはない。初恋の人は、もう…。
Chapter1
三月三十一日、十七時三十分。
終業を告げるチャイムの音が、四十二年間聞き続けたその旋律を、今日ばかりはどこか他人の家の呼び鈴のように空虚に響かせた。
深山和良(みやま かずよし)は、使い古された木製のデスクの天板に、最後のひと拭きを入れた。雑巾がデスクの角をなぞる感触、僅かに残るインクの染み、肘が擦れて白く変色した縁。それらすべてが、彼という人間がここに存在した証であり、同時に今まさに消え去ろうとしている足跡でもあった。
「深山さん、長い間お疲れ様でした」
総務の女性社員が、どこか浮き足立った声で声をかけてくる。フロアの空気はすでに祝祭の予感に満ちていた。定年退職という節目は、去る者にとっては終わりの鐘だが、残る者にとっては一つのイベントに過ぎない。彼らの視線には、労いという名の包装紙に包まれた、無邪気な安堵が見え隠れする。
和良は手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「ああ、ありがとう」
短く答える声は、自分でも驚くほど平坦だった。胸の内に去来するはずの感傷や熱い想いは、まるで分厚い氷の下に閉じ込められた水流のように、表層には決して浮かび上がってこない。ただ、静かだった。凪いだ海のように、恐ろしいほど静かだった。
デスクの上にはもう、私物は何も残っていない。彼が四十に二年を費やして積み上げたものは、ダンボール箱一つに収まる程度の重さしかなかったのか。そんな乾いた思考が、頭の片隅を過る。
「では、そろそろ……」
部長に促され、和良は立ち上がった。椅子の軋む音が、フロアの喧騒に吸い込まれて消える。
セレモニーは、まるで台本通りに進む三文芝居のようだった。
蛍光灯の光が反射する会議室。並べられたパイプ椅子。若手社員たちの、どこかぎこちない拍手。和良はその中心に立たされ、まるで標本のように視線を浴びていた。
「深山さんの、その真面目な仕事ぶりには、我々も見習うべき点が多々あり……」
部長の祝辞は、どこかのビジネス書から引用したような美辞麗句で飾られていた。和良はその言葉を、右から左へと聞き流す。言葉の意味よりも、部長のネクタイが少し曲がっていることや、窓の外を飛ぶ烏の影の方が、よほど現実味を帯びて感じられたからだ。
やがて、花束と記念品が手渡された。
ずしりとした重み。花束の香りが、オフィスの無機質な匂いと混じり合い、奇妙な不協和音を奏でる。記念品の箱には『置時計』と記されていた。
皮肉なものだ、と和良は内心で苦笑した。明日から時間の縛りから解放される人間に、時間を刻む道具を贈るとは。
「一言、お願いします」
マイクを向けられ、和良は咳払いをした。視線の先には、数十人の社員たちがいる。彼らの多くは、和良が入社した頃にはまだ生まれてもいなかった者たちだ。彼らに何を語ればいいのか。昭和という時代、モーレツ社員と呼ばれた過去、徹夜続きのプロジェクト、そして、失われたものたちへの挽歌。
だが、口をついて出たのは、そんな重たい言葉ではなかった。
「……長い間、世話になった。ありがとう」
それだけだった。
それ以上の言葉を紡げば、何かが決壊しそうな予感があったのか、あるいは単に、言葉にするだけの価値を今の自分に見出せなかったのか。
会場が一瞬、静まり返る。「え、それだけ?」という戸惑いの空気が流れたが、すぐに儀礼的な拍手がそれを覆い隠した。
「やっぱり深山さんらしいな」「渋いよな」
そんな囁きが聞こえる。不器用で、口下手で、面白味のない昭和の男。それが彼らの知る「深山和良」であり、和良自身もその役割を最後まで演じ切ったのだ。
会社を出た瞬間、春の夕暮れ特有の、生ぬるい風が頬を撫でた。
空は茜色と群青色が混じり合うグラデーションに染まり、ビルの稜線が黒く浮き上がっている。いつもと同じ帰宅路。だが、その風景は決定的に変質していた。
明日、自分はここには来ない。
その事実が、脳裏に重たい楔を打ち込む。
これまで、この夕暮れは「休息への序章」だった。家に帰り、風呂に入り、ビールを飲み、翌日の戦いに備えるための束の間の安息。だが、今日の夕暮れは違う。それは「終わりの合図」であり、その先には無限に広がる空白が待っている。
スーツの重みが、急に増したように感じた。
手にした花束が邪魔だった。道行く人々が、チラチラと視線を向けてくる。その視線が、「役割を終えた人間」への憐憫を含んでいるように思えて、和良は歩調を速めた。
自由。
定年とは、自由を得ることだと言われる。だが、今の和良にのしかかるのは、解放感などという軽やかなものではない。それは、重力そのものが変質したかのような、圧倒的な喪失感だった。
社会という巨大な歯車の一部として回転し続けることで、彼は自分の輪郭を保ってきた。摩耗し、油に塗れ、軋み声を上げながらも、確かにそこで噛み合っていた。だが今、その歯車から外され、ただの鉄塊として路傍に放り出されたのだ。
「……何をするんだったかな」
独り言が漏れた。明日、目が覚めて、何をする?
新聞を読む。朝食を摂る。その後は?
空白。真っ白なスケジュール帳。
それは自由などではない。刑罰に近い。
駅の改札を抜け、ホームへと上がる。
帰宅ラッシュの時間帯。疲れた顔をしたサラリーマン、スマートフォンに見入る学生、談笑するOL。無数の人間が、それぞれの目的地へ向かって流れていく。
和良はホームの柱に背を預け、その奔流を眺めた。
騒がしい。電車の走行音、発車ベル、アナウンス、話し声。それらが渾然一体となって鼓膜を叩く。だが、不思議なことに、それらの音はひどく遠く感じられた。
まるで、自分と世界との間に、分厚い透明なガラス壁が立ちはだかっているかのように。
彼らは「現役」の世界に生きている。明日もここに来る理由がある。行くべき場所がある。
自分はどうだ。
手に持った記念品の置時計の箱が、指に食い込む。花束の花弁が、一枚、風に吹かれて舞い落ち、誰かの革靴に踏み潰された。
(俺は、どこへ行けばいい?)
強烈な孤独感が、胸の奥底から冷たい泉のように湧き上がり、全身を浸していく。それは四十二年間の労働が覆い隠していた、根源的な孤独だった。仕事という鎧を脱いだ瞬間、むき出しになった魂が、寒さに震えている。
不意に、和良は花束を持ち替え、空いた手でポケットを探った。
指先に触れたのは、硬質なスマートフォンの感触。
意味もなく画面を点灯させる。時刻は十八時十五分。通知は何もない。誰からも連絡などあるはずがない。妻を亡くしてから十年、子供はいない。家には静寂だけが待っている。
画面の光が、和良の古びた顔を青白く照らし出す。
彼はふと、その黒い鏡の中に、四十年以上前に置き去りにしてきた「何か」の残像を見たような気がした。いや、それは錯覚だ。だが、この世界から切り離されたような孤独の中で、縋れるものは、過去の幻影か、あるいは、まだ見ぬ誰かの声だけなのかもしれない。
指が震えた。
彼は逃げるように、あるいは救いを求めるように、とあるアプリのアイコンをタップしようとして、躊躇い、そして深いため息と共に画面を消した。
電車が滑り込んでくる。強烈な風圧が、和良の白髪を乱暴にかき乱した。
彼は花束を抱き直すと、逃げるように開いたドアの奥へと身体を滑り込ませた。ガラスに映る自分は、幽霊のように頼りなく、透けて見えた。
Latest Chapters
始発列車特有の、どこか真空めいた静けさが車内を支配していた。
ガタン、ゴトン。
レールの継ぎ目を刻む一定のリズムが、和良の鼓動
駅前のロータリーに面したコンビニエンスストアの自動ドアが、軽い電子音と共に開いた。
深夜とも早朝ともつかない時間帯の店内は、眩暈がするほど明るかった。蛍光灯の白
『……P.S.』
ミナトの声が、少しだけ湿度を帯びた。それは深夜のスタジオの静寂を吸い込んだような、あるいは四十年分の埃を被った封筒の重みを指先で感じ取っている
『……私のサンダルに入った砂を、カズ君は不機嫌そうに、でも丁寧に払ってくれたわよね』
ミナトのその声が、鼓膜を突き破り、直接脳髄を撫でるような錯覚を覚えた。
You Might Also Like
No Recommendations
No recommendations right now—check back later!

