简介
人狼族と吸血鬼族の数世紀にわたる血塗られた抗争。その最前線で「狂犬」と恐れられた人狼族の男が、戦火の中で一人の人間の女性と出会い、運命を変える物語。本編と外伝2編。
章節1
鉄の匂いが、夜の湿った空気に混じって鼻腔を突き刺していた。
ガウルは、自分の喉から漏れる呼吸が、壊れた、ふいごのような音を立てているのを自覚していた。左脇腹から溢れ出す熱は、厚い毛皮を濡らし、地面の枯れ葉を黒く染めていく。吸血鬼軍の追撃を振り切るために雪混じりの峠を越えたが、身体の芯はすでに冷え切っていた。視界の端が、煤けたガラス越しに覗くように暗く濁っていく。人狼族の誇りである強靭な回復力も、銀を塗り込まれた刃による深い斬撃の前には無力だった。
彼は、巨木に背を預けてずるずると座り込んだ。指先が痺れ、握りしめていた折れた剣の柄が雪の上に落ちる。死を覚悟するのは、これが初めてではない。戦場こそが揺り籠であり、死地こそが墓場だと教え込まれてきた。だが、こうして一人、誰にも知られず森の静寂に溶けていくのは、想像していたよりもずっと寒く、そして、ひどく虚しいものだった。
意識が遠のく中、遠くで雪を踏みしめる音が聞こえた。追手か、それとも森の獣か。ガウルは牙を剥こうとしたが、唇を動かす力さえ残っていない。
「……あら、こんなところに」
鈴の鳴るような、だが落ち着いた響きを持った声が降ってきた。視界に飛び込んできたのは、月光を背負った一人の女の影だった。彼女の背負い籠からは、土と青臭い草の匂いが漂ってくる。女はガウルの巨大な体躯を見ても、悲鳴を上げるどころか、迷いなく、その傍らに膝をついた。
「ひどい怪我。これでは、もう一刻も持たないわ」
彼女の指先が、ガウルの熱を持った額に触れた。その掌のあまりの小ささと、対照的な温かさに、ガウルは狼としての警戒心を忘れて目を見開いた。女の瞳には、怪物に対する恐怖ではなく、ただ目の前で消えゆこうとする命への、静かな焦燥だけが宿っていた。
エナという名のその女性は、村の薬師だった。彼女はガウルを、雪に埋もれた廃屋へと引きずり込み、夜を徹して手当てを施した。
数日後、ガウルが意識を取り戻したとき、最初に感じたのは、煮炊きされるスープの香ばしい匂いと、薪がはぜるパチパチという音だった。全身を包む布の清潔な感触に、彼は自分がまだ生きていることを知った。
「気がついたのね。動かないで、まだ傷が開くわ」
エナは、湯気の立つ木碗を差し出した。ガウルは人間という種族を、守るべき「家畜」か、あるいは略奪の対象としてしか見てこなかった。しかし、彼女が差し出す匙から伝わる温もりは、彼がこれまでの戦いの中で得たどんな戦果よりも、深く身体に染み渡った。
「あんたは……俺が怖くないのか」
掠れた声で、ガウルは問うた。人狼としての特徴である鋭い犬歯や、異常に発達した筋肉は隠しようがない。だが、エナは困ったように微笑むだけだった。
「山で遭難した旅人さんでしょう? 私には、そう見えているわ。それに、その体で私を襲う力なんて、どこにも残っていないもの」
彼女の言葉には、裏も表もなかった。ただそこに在る事実を受け入れている。ガウルはその日から、エナの家で静養することになった。彼女が摘んでくる薬草の種類を覚え、重い水瓶を運ぶのを手伝い、夜には暖炉の前で彼女が語る村の穏やかな日常に耳を傾けた。
その時間は、ガウルの中にあった「戦士」というアイデンティティを、音も立てずに削り取っていった。
軍に戻れば、また血を流し、血を求める日々が待っている。同胞たちの咆哮、吸血鬼たちの冷徹な進軍、泥濘に沈む死体。それらすべてが、エナの淹れるハーブティーの香りの前では、ひどく滑稽で、無意味なものに思えた。なぜ自分は、あんなに必死になって、誰かを殺すための刃を研いでいたのだろうか。
「エナ。俺は……」
ある夜、ガウルは切り出した。自分の正体を明かし、ここを去るべきだという理性が、彼女の傍にいたいという本能と激しく衝突していた。しかし、エナは彼の言葉を遮るように、その大きな手を両手で包み込んだ。
「ここには、戦う理由なんて何もないわ。冬が来れば薪を割り、春が来れば種を撒く。それだけで、一日は精一杯なんですもの」
彼女の言葉は、ガウルにとっての福音だった。彼はその夜、軍から支給された紋章入りのナイフを深い谷底へと投げ捨てた。ガウルという名の戦士は、あの雪の夜に死んだのだ。
二人は、さらに人里離れた辺境の村「穏やかな風の里」へと移り住んだ。そこは、切り立った崖と深い森に守られた、名前通りの静かな場所だった。
村人たちは、エナが連れてきた大男を、最初は遠巻きに眺めていた。ガウルは相変わらず無口で、表情も乏しかったが、その強靭な体格を活かして、村の荒仕事を一手に引き受けた。壊れた屋根の修理、凶暴な野犬の追い払い、冬に備えた大量の薪割り。彼は一言も文句を言わず、ただ黙々と働き続けた。
村人たちはいつしか、彼を「無口な用心棒」として受け入れるようになった。彼が人狼であることに気づいている者もいたかもしれないが、誰もそれを口にはしなかった。この里では、過去よりも、今ここでどう生きているかが重要だった。
夕暮れ時、ガウルは野良仕事を終え、村の外れにある小さな家へと向かっていた。
家からは、エナが夕食を準備する音が聞こえてくる。彼は玄関の前に立ち、自分の大きな手を見つめた。かつては剣を握り、他者の命を奪うために使われていた指先が、今は土に汚れ、エナのために摘んだ小さな山吹色の花を握っている。
不器用な自分に、自嘲気味な笑みがこぼれる。
「おかえりなさい、ガウル」
扉が開くと、そこには暖かな光の中に立つエナがいた。彼女の笑顔を見るたび、ガウルの胸の奥にある古い傷跡が、少しずつ癒えていくような感覚があった。
「ああ、ただいま」
彼は短く答え、彼女に花を差し出した。エナは嬉しそうにそれを受け取り、彼の大きな胸に顔を寄せた。そこには、戦場の喧騒も、種族の対立も、血の呪縛も存在しない。ただ、二人の人間の、穏やかな鼓動だけが重なっていた。
ガウルは、彼女の柔らかな髪に鼻を寄せ、その温もりを深く吸い込んだ。
外では、里の名前の通り、穏やかな風が草原を撫でて通り過ぎていく。かつて荒野で咆哮を上げていた一匹の狼は、今、一人の女の静かな吐息の中で、真の安らぎを見つけていた。
彼はもう、夜を恐れることはなかった。
ガウルは、エナの肩を抱き寄せ、静かに家の中へと入り、重い木の扉を閉めた。
最新章節
秋の深まりと共に、森の色は鮮やかな死を予感させる黄金色から、湿った土のような褐色へと沈んでいった。穏やかな風の里を囲む山々からは、夜ごとに冷気が降りてきて、家々の窓を白く曇らせる。ガウルは、里
穏やかな風の里を包み込む秋の夜気は、本来であれば収穫の喜びを予感させる芳醇なものであるはずだった。しかし、ここ数日の間に里を支配しているのは、肌を刺すような湿った冷気と、土の底から這い出してき
広場を支配していたのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。
地面に転がった吸血鬼の死体からは、どす黒い液体が溢れ出し、乾いた土に吸い込まれていく。その凄惨な骸の
広場を支配していたのは、夜の闇を切り裂く絶叫と、松明の炎が爆ぜる不吉な音だった。
里の中心、普段は収穫の相談や子供たちの笑い声で満たされるその場所は、いまや
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