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魂の書記官

魂の書記官

Letzte Aktualisierung: 2026-04-02 03:17:54
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Zusammenfassung

断ち切れぬ想いを抱えた者がたどり着く白と黒の本しかない世界。そこへたどり着いた一人の迷える書記官が紡ぐ過去と未来を繋ぐ物語。


Kapitel1

眼下の海は、絵の具を溶かしたような鮮やかなエメラルドグリーンから、沖へ向かうにつれて深みを帯びた群青へとグラデーションを描いていた。沖縄の空はどこまでも高く、容赦のない陽光がヘリコプターのアクリル窓に反射して視界の端を白く焼く。市橋リョウは操縦桿を握る手に伝わる微細な振動を感じ取りながら、インカムのマイクを引き寄せた。


「右手にご覧いただけますのが、慶良間諸島です。あの辺りは運が良ければ、ホエールウォッチングなんかもできるんですよ」


軽快なトーンを作ってアナウンスを入れると、後部座席から若い男女の歓声が鼓膜を揺らした。ヘッドセット越しに聞こえてくるのは、クジラへの期待というよりも、非日常の空間で密着している互いの体温に対する興奮だ。女が男の腕にすがりつき、男が自慢げに窓の外を指差す。リョウは計器類から視線を外さぬまま、口角だけを少し上げて息を吐いた。


「俺も彼女欲しいな……」


ローターの轟音に掻き消されるほどの声で呟き、リョウは機体をゆっくりと旋回軌道に乗せた。


ヘリポートのコンクリートにスキッドが接地する重い衝撃。タービンエンジンの回転音が徐々に低くなり、静寂が戻ってくる。乗客のカップルを見送ったリョウがヘルメットを小脇に抱えて待機所へ向かうと、恰幅の良い社長が顔を綻ばせて歩み寄ってきた。


「おう!リョウ、今日もお疲れ様な!明日も頼むな!」


社長の背後では、作業着姿の整備担当者が何やら落ち着かない様子でクリップボードを抱えて立っていた。社長が先ほどまでその整備士の肩を強めに叩きながら何かを言い含めていたのを、リョウは上空からのアプローチ中に視界の隅で捉えていたが、特に気には留めなかった。機材の不調や部品の調達の遅れなど、現場ではよくあることだ。


「お疲れ様です。明日も快晴みたいですから、絶好のフライト日和ですよ」


リョウが缶コーヒーを受け取りながら応えると、社長は満足そうに頷いて事務所へ戻っていった。その広い背中を見送りながら、リョウは冷えたコーヒーを喉に流し込む。


人を護る仕事がしたくて自衛隊に入隊した。しかし、そこで待っていたのは、国民の命よりも自身の肩の星の数を気にする上官たちの政治と保身だった。理不尽な命令に反発し、組織の歯車になることを拒んだ結果、居場所を失い十年で自衛隊を去った。そんな行き場のないリョウを拾い、ヘリの操縦桿を握らせてくれたのがこの社長だった。


国防という大義名分で人を護ることはできなくなった。だが、こうして空を飛び、後部座席で歓声を上げる客の笑顔を見ていると、胸の奥で燻っていた何かが静かに満たされていくのを感じた。国を護るより、目の前の人間の休日の思い出を護る。案外、自分にはこっちのちっぽけな仕事の方が向いているのかもしれない。


夜、リョウは自宅のワンルームでベンチプレスを上げていた。金属のシャフトが擦れる鈍い音と、自身の荒い息遣いだけが部屋に響く。自衛隊時代に短く刈り込んでいた髪は今は少し伸び、明るい金髪に染められている。バーベルをラックに戻し、汗を拭いながらベランダに出ると、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。


自衛隊にいた頃は健康管理のためにやめていた煙草だが、今は深く肺に吸い込み、紫煙を夜空に吐き出す。ニコチンが脳を巡る感覚を味わいながら、リョウは目を閉じ、今日のフライトの風向き、計器の数値、操縦桿の重さを脳内で完全に再現するシミュレーションを行った。どれだけ外見を崩しても、体を苛め抜くことと、不測の事態に備える思考訓練だけは、染み付いた習性のように毎日欠かさず続けていた。


「悪くない生活だ」


手すりに寄りかかり、眼下に広がる那覇の夜景を見下ろす。安定した仕事、鍛え上げられた体、自由な時間。欠けているものがあるとすれば、帰りを待つ人間の存在くらいだ。


「……かわいい彼女でもいたらなぁ」


吸い殻を携帯灰皿に押し込み、リョウはため息とともに部屋へ戻った。


翌朝、ヘリポートの待機所には、予約リストにあった『宮原』という名前から想像される三人家族ではなく、スーツ姿のままの父親と、クジラのぬいぐるみを抱きしめた小さな女の子の二人だけが立っていた。


「本当に申し訳ない!妻が急に仕事のトラブルで、今朝の便で都内に戻ることになってしまって……!」


父親が額に汗を浮かべながら平謝りする。リョウは手で制し、柔らかい笑みを浮かべた。


「いえ、お気になさらず。料金はすでにパックで頂戴していますし、お二人のフライトに何の問題もありませんよ」


父親は安堵の息を吐き、足元で俯いている娘の背中を軽く押した。


「ほら、カナ。行くぞ。ヘリコプター乗るんだろ?」


しかし、ツインテールに結われた髪を揺らし、カナと呼ばれた女の子は頑なに首を横に振った。その瞳には大粒の涙が浮かんでおり、母親が約束を破って帰ってしまったことへの深い失望と怒りが、小さな体を強張らせていた。


「カナ、乗りたくない。ママと乗ってクジラさんみるって約束したもん」


父親が困り果て、周囲のスタッフに申し訳なさそうな視線を向ける。リョウはヘルメットをベンチに置き、ゆっくりと歩み寄ると、カナの視線の高さに合わせて片膝をついた。迷彩柄のフライトスーツの膝がコンクリートに擦れる。


「お嬢ちゃん、カナちゃんっていうのか。あのね、カナちゃん」


リョウは声を潜め、内緒話をするように駐機場に停まっている機体を指差した。


「実は、あのヘリコプターはただの乗り物じゃないんだ。生き物なんだよ。機嫌がいいと、空の上で喋ったりするかもしれないぞ?」


カナの動きがピタリと止まった。涙で濡れた瞳が、リョウの顔とヘリコプターを交互に見る。


「……ほんとう?」


「ああ、本当だ。でも、カナちゃんが泣いていると、ヘリコプターも悲しんで飛ばなくなっちゃうかもしれない。どうする? 一緒にお話ししに行ってみるか?」


カナは少しだけ躊躇った後、抱きしめていたクジラのぬいぐるみの腕を強く握り直し、こくりと頷いた。


「本当!? カナ、乗りたい!」


途端に顔を輝かせて走り出した娘の背中を見て、父親がリョウに向かって深々と頭を下げる。リョウは大丈夫ですと片手を上げ、機長席へと向かった。


ローターの回転が最高潮に達し、機体はふわりと重力を振り切って沖縄の空へと舞い上がった。今日の海は昨日よりもさらに澄み切っており、海底のサンゴ礁の形までがはっきりと見て取れた。


「あちらに見えますのはー! 沖縄の怪獣が住む島でーす!」


リョウはインカムのスイッチを切り替え、普段の観光案内とは全く違う、アニメのキャラクターのような大袈裟な声色でアナウンスを入れた。後部座席では、カナが窓にへばりつくようにして外を見下ろしている。


「パパ! 喋った! ヘリコプターさん喋った!」


カナは完全にリョウのアナウンスをヘリコプター自身の声だと信じ込んでいた。興奮のあまり、短い足をバタバタとさせて前の座席を蹴る。


「痛っ! こらこら、そんな乱暴な子には、お空のお散歩おしおきだ〜!」


リョウはサイクリックを僅かに操作し、機体を安全な範囲でフワリと上下に揺らした。無重力のような感覚に、後部座席からカナの高い笑い声と、父親の少し引き攣った笑い声が響く。リョウもインカムの向こうで、声を出さずに笑った。この瞬間のために飛んでいるのだと、確かな手応えを感じていた。


予定のクルージングコースを終え、機首をヘリポートの方向へ向けた時だった。


コンソールパネルの警告灯が、前触れもなく赤く点滅を始めた。同時に、機体全体を細かい振動が包み込む。乱気流の揺れではない。金属と金属が異常な摩擦を起こしているような、機体内部からの異音。


「これって……」


リョウの視線が計器盤を走る。油圧の数値が異常な速度で低下しており、トランスミッションの温度計がレッドゾーンを振り切ろうとしていた。


次の瞬間、操縦桿から抵抗が完全に消え失せた。


「なんだと!?」


ローターの回転数が急激に落ち込み、機体が右へ大きく傾く。空気を掴んでいたはずのブレードがただの鉄の板と化し、強烈なGがリョウの体をシートに押し付けた。


「パパ怖い!!」


後部座席からカナの悲鳴と、父親が娘を庇うように抱きしめる衣擦れの音が聞こえた。


「くそっ! 掴まってろ!!」


リョウは即座にオートローテーション(自転降下)の態勢に入ろうとコレクティブピッチを下げる。だが、油圧系統が完全に沈黙した機体は、リョウの操作を一切受け付けなかった。コントロールを失ったヘリコプターは、重力に引かれるまま錐揉み状態に陥り、眼下に広がる群青の海面へと一直線に落下していく。


視界が激しく回転し、海と空が交互にフラッシュする。警報音が脳髄を突き刺すように鳴り響く中、リョウは最後まで操縦桿を握り締め、ペダルを踏み込もうと足掻いた。


乗客を護る。その一念だけで筋肉を硬直させたが、物理の法則は無情だった。


フロントガラスいっぱいに、硬いコンクリートのように迫り来る海面が広がり——そこで、リョウの視界は砕け散った。


暗闇の中を漂っていた。

痛みはない。寒さも、熱さもない。ただ、自分の意識だけが泥水の中に沈んでいるような、ひどく鈍く、奇妙に心地よい麻痺状態にあった。


遠くで、規則的な電子音が鳴っている。ピッ、ピッ、という無機質な音。病院のベッドの上なのだろうと、リョウの意識は客観的に現状を分析した。だが、指先一つ動かすことはおろか、瞼を持ち上げることすらできない。呼吸をしている感覚すらなかった。おそらく、死の淵を彷徨っている、その最後の境界線にいるのだと直感した。


不意に、泥水を通して響いてくるような、くぐもった声が耳に届いた。


『……社長、どうしますか。あのトランスミッションの亀裂、やっぱり昨日の段階で……』


震えるような声。見覚えのある整備士の声だ。


『馬鹿野郎、声がでかい。……整備不良なんて公表できるわけがないだろう。うちの会社が飛ぶぞ』


低く、押し殺したような社長の声。昨日、リョウの肩を叩いて笑っていたあの声だ。


『でも、このままじゃ……』


『……リョウの操縦ミスにしよう。あいつは客のために、普段からお遊びな飛び方をしていた。突然の突風で機体の姿勢を崩し、リカバリーに失敗した。そういうことにしておけ。死人に口なしだ』


声が遠ざかっていく。


リョウの意識は、その言葉の意味をゆっくりと反芻した。

乗客の親子の安否はわからない。だが、自分が信じた男は、自分の過失を隠蔽するために、すべての罪をリョウに被せて切り捨てようとしている。


「こいつら、俺のせいにして誤魔化す気かよ」


怒りが湧き上がるはずだった。しかし、麻痺した精神は感情の起伏すらも平坦に押し潰し、ただ冷たい諦念だけが広がっていった。自衛隊の時と同じだ。結局、組織というものは末端の人間を消費して生き延びる。人を護るために飛んでいたはずが、最後は自分の名誉すら護れずに終わるのか。


どうにもできない。声を上げることも、立ち上がることも。

ゆっくりと、最後の電子音が長く尾を引き、リョウの意識は完全な暗黒へと溶けていった。


肺に冷たく乾燥した空気が流れ込み、リョウは大きく息を吸い込んで目を開けた。


硬い床の上に仰向けに倒れていた。ゆっくりと上体を起こし、自分の両手を見る。厚いタコのある掌、鍛え上げられた前腕の筋肉。病院のベッドで動かなかったはずの肉体は、死ぬ直前の万全な状態のままそこにあった。


だが、視界に映る自身の服装にリョウは息を呑んだ。

体の感覚はそのままだが、着ているのは民間のフライトスーツではなく、かつて脱ぎ捨てたはずの自衛隊の迷彩服だった。髪の毛も黒く、生地の硬い感触、胸元の階級章の重み。なぜ、今の自分がこの服を着ているのか。


立ち上がり、周囲を見回したリョウは、その光景に言葉を失った。


円筒形の巨大な空間。壁面はすべて木製の重厚な本棚で覆われており、それが上も下もわからないほど無限に続いている。吹き抜けになった中央の空間を見上げても、天井は見えない。見下ろしても、底は見えない。ただ、幾千、幾万という本が整然と並ぶ棚だけが、幾何学的な模様のように連なっている。


そして異様なのは、その本棚に収められている本の装丁だった。分厚い革張りのものから、薄い冊子のようなものまで形状は様々だが、色はただ二つ。漆黒のカバーか、純白のカバーか。それ以外の色は、この空間に一切存在していなかった。


「お目覚めですか、新人書記官」


静寂を破る、透き通った声。

振り返ると、数歩離れた場所に一人の女性が立っていた。肩まで切り揃えられた黒髪。理知的な光を宿した銀縁の眼鏡。純白のブラウスに、淡い水色のロングスカートという、このモノクロームの空間において唯一色彩を持った存在だった。年齢はリョウとそう変わらないように見える。


「ここは……?」


警戒心を露わにし、無意識に足幅を広げて重心を下げるリョウに対し、女性は表情ひとつ変えずに事務的なトーンで答えた。


「ここは魂の図書館。本となった迷える魂が集い、浄化する場所」


「魂の図書館……? 浄化……?」


リョウは眉をひそめた。ヘリが墜落し、裏切りの言葉を聞き、そして死んだ。そこまでは理解できる。だが、この目の前に広がる現実離れした光景は、リョウの論理的な思考を完全に拒絶していた。


女性はリョウの混乱を無視し、手元のクリップボードのようなものに視線を落としながら言葉を続ける。


「リョウさん。貴方は選ばれし魂の救済者。本の中の魂を導く書記官です」


「救済者? 書記官? 冗談じゃない。俺は……俺はただのパイロットだ。いや、だった、か。誰かを導くなんて柄じゃない」


リョウの言葉に、女性は初めて視線を上げ、眼鏡の奥の瞳でリョウを真っ直ぐに射抜いた。


「貴方が生前、何を護り、何に裏切られたかはこの場所に記録されています。ですが、ここはそういう場所です。貴方の意志に関わらず、役割はすでに与えられました」


冷徹な宣告が、乾いた空気の中に響く。

リョウは再び、螺旋を描いて無限に伸びる本棚の塔を見上げた。上にも下にも果てがない。出口も、入り口もない。ただ圧倒的な静寂と、無数の黒と白の背表紙だけが、今のリョウの空洞になった胸の内をそのまま具現化したように、どこまでも冷たく聳え立っていた。

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