るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚・異客の章-
Synopsis
明治の世に、ありえざる二人の武人が舞い降りた。一人は死闘を渇望する「剣聖」。もう一人は、国を憂い修羅の道を選ぶ「悲壮の末裔」。
Chapter1
明治十一年、東京。文明開化の華やかな灯りが煤けた江戸の夜を塗り替えようとする、そんな時代の狭間。
月光が瓦屋根を鈍く照らし、往来から聞こえる陽気な声も今は遠い。一人の剣客が、下駄の音を高く響かせながら闇に沈む路地を歩いていた。先ほどの試合、道場破りに来た生意気な輩を木っ端微塵に叩き伏せた高揚感が、未だその身を火照らせていた。勝利の美酒に酔い、己が剣の才を疑うことなど微塵もない。天下無双も夢ではない、とすら本気で信じていた。
その傲慢な思考が、ぴたりと止まった。
道の先に、誰かが立っていた。それは、この明治の世にはあまりにも不釣り合いな、古びた南蛮胴具足を纏った老人。腰には鞘に収まった長大な太刀が、まるで古寺の柱のように鎮座している。ただそこに在るだけで、空気が鉛のように重く淀み、剣客の肺を圧迫した。息が、できない。勝利の熱は瞬時に冷え切り、代わりに背筋を氷の指がなぞるような悪寒が走った。目の前の存在は、人ではない。あるいは、人の形をした災厄そのものだった。
「……ほう」
老人は、子供が初めて見る玩具に目を輝かせるような、無邪気とも言える好奇心に満ちた声で口を開いた。「お主、なかなか良い腕をしておるな。その構え、流派は何と申す?」
その問いは、まるで嵐の前の静けさだった。剣客は喉の奥で悲鳴を上げたかったが、声帯が恐怖で麻痺している。かろうじて絞り出した声は、自分でも情けないほどに震えていた。
「……神道無念流、免許皆伝……貴様、何者だ!」
「流派か。結構なことだ」老人は満足げに頷くと、何のてらいもなく、しかし絶対的な事実として宣告した。「一手、教えてはもらえぬか」
返事を待つ気など、毛頭ない。老人が一歩、踏み出した。ただそれだけ。しかし剣客の目には、老人の姿がぶれ、世界そのものが歪んだように見えた。恐怖が理性を焼き切り、本能が叫ぶ。抜け!抜かねば死ぬ!
彼は血反吐を吐く思いで柄に手をかけ、鯉口を切った。しかし、刀身が鞘走る音を奏でるよりも速く、老人の影が懐に入り込んでいた。いつ抜いたのか。いや、そもそも抜いたのかどうかすら認識できない。理解が追い付く前に、腹部に硬質な、それでいて全てを砕くような衝撃が叩き込まれた。
「ぐ、ぉっ……!?」
刀の背だ、と辛うじて理解できたのは、骨が砕ける嫌な音と、内臓が揺さぶられる感覚が全身を駆け巡った後だった。肋骨が内側に陥没する激痛。視界が急速に暗転し、意識が奈落へと落ちていく。最後に見たのは、自分を見下ろす老人の、まるで退屈な芝居でも観たかのような、静かな瞳だった。
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翌日、神谷活心流道場の朝は、いつものように穏やかだった。
「弥彦!足捌きがなってないわよ!もっと腰を落として!」
神谷薫の竹を割ったような声が、澄み切った空気に響き渡る。庭では、一番弟子の明神弥彦が汗だくになりながら木刀を振っていた。その傍らで、緋村剣心はどこか不器用な手つきで、洗濯されたばかりの着物を物干し竿にかけている。その赤い着物と腰の逆刃刀の組み合わせは、のどかな日常風景の中で奇妙な違和感を放っていた。
「ちくしょう!分かってるって!薫は口うるさいんだよ!」
「口答えしない!あんたが一人前になるまで、私は何度だって言ってあげるから!」
微笑ましい師弟のやり取り。剣心は「おろ?」と間の抜けた声を漏らしながら、その光景を穏やかな目で見守っていた。この平和こそが、彼が血塗られた過去を捨ててまで手に入れたかった宝物だ。
その平穏を破るように、道場の入り口から威勢のいい声が聞こえた。
「よお!剣心!面白い噂を仕入れてきたぜ!」
喧嘩屋の相楽左之助が、巨大な斬馬刀を肩に担ぎ、にやにやと笑いながら姿を現した。彼の登場は、いつも厄介事か、あるいはただの騒動の前触れだ。
「左之助さん、また何かあったのでござるか?」
「ああ。今、江戸…いや東京中の剣客たちの間で持ちきりの話だ」左之助は斬馬刀をどさりと下ろすと、興味深そうに声を潜めた。「なんでも、『鬼』が出るらしい。それも、剣客ばかりを狙う、『剣客狩り』の鬼がな」
薫と弥彦も稽古を中断し、話の輪に加わる。
「鬼ですって?馬鹿馬鹿しい。この明治の世にそんなものがいるわけないじゃない」薫は呆れたように腕を組んだ。
「それがそうでもねえんだよ」左之助は真剣な表情で続けた。「ただの辻斬りじゃねえ。狙われるのは、どこかの道場で名を馳せたやつばかり。しかも、やられた連中は再起不能か、運が悪けりゃ死んでる。手口が尋常じゃねえって話だ」
その言葉が道場に重く響いた瞬間、剣心の動きがほんのわずかに、誰にも気づかれぬほど微かに止まった。濡れた着物を握る手に、一瞬だけ力がこもる。だがすぐに、彼は何事もなかったかのように作業を再開した。その横顔に浮かぶ柔和な笑みは変わらない。しかし、その琥珀色の瞳の奥、最も深い場所に、一瞬だけ、夜の闇よりも昏い影がよぎったのを、誰一人として知る者はいなかった。
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その夜。ガス灯が文明の光を投げかける巷の片隅で、葦名一心は一人、西洋風の酒場(パブ)の椅子に腰掛けていた。彼は初めて口にする「びいる」という名の奇妙な飲み物を、珍しそうにちびちびと味わっている。黄金色の液体が喉を通るたびに、苦味と共に弾ける泡が妙な感覚を呼び起こした。
窓の外を、黒い鉄の塊がけたたましい音と煙を吐きながら走り抜けていく。蒸気機関車、とか言ったか。何もかもが、彼の知る世界とは異なっていた。人々の服装も、言葉遣いも、そして振る舞う剣でさえも。全てが目新しく、興味深い。一心は、まるで異国に迷い込んだ子供のように、その全てを観察していた。
だが、その好奇心に満ちた眼差しの奥には、深く、どこまでも広がる空洞のような静寂が広がっていた。誰にも理解されぬ、絶対的な孤独。彼は孫の最後の我儘を叶えるために、この見知らぬ時代に蘇った。ただ一つの目的を胸に。
「……弱い」
グラスを置き、彼は誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
「弱すぎる……。儂に、刀を抜かせるほどの興すら、起こらぬわ」
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空気が、爆ぜた。言葉も合図も不要。二人の剣士の間にあった見えざる一線が消失した瞬間、甲板は常人の認識を超えた戦場へと変貌した。
緋村剣心、いや、抜刀斎が動いた。それは疾風ではなかっ
薫の叫びが、剣心の耳元で木霊する。それは悲痛な刃となって、彼が十年かけて築き上げてきた心の壁を、いとも容易く切り裂いた。時間が、止まったように感じられた。船の軋む音も、乗客の怯える声も、
「飛天御剣流、龍翔閃!」
剣心が地を蹴り、その身体は鞘から放たれた矢のように宙を舞う。逆刃刀が月光を浴びて鈍い銀色の弧を描き、脳天から振り下ろされる一撃は岩をも砕くはずだ
喉笛に突きつけられた木刀の先端が、死の冷たさをありありと伝えてくる。剣心は、呼吸さえも忘れたかのように硬直していた。首筋を伝う汗が一滴、また一滴と畳に落ち、静寂の中でその音だけがやけに大きく響く
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